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女子ラグビーチーム「三重パールズ」GM / 斎藤 久

斎藤久

四日市を本拠地とする女子ラグビーチーム「パールズ」。創設5年目。7人制女子ラグビーのトップリーグ、太陽生命リーグにおいて、常に優勝を争う日本屈指の強豪チームだ。このパールズを率いるのが、斎藤久ゼネラルマネージャー。朝明高校ラグビー部の監督として同チームを6度の花園出場に導いた名監督だ。パールズが創設当初から強豪チームとなれたのは、彼が今まで培ってきた実績と、ラグビーへの熱い想いからだった。

三重に女子ラグビーチームを!

 2016年のリオデジャネイロオリンピックで、7人制の女子ラグビーが正式種目になり、それを受け、同年の岩手国体でも女子7人制ラグビーが正式種目になった。「三重県でも女子のチームを立ち上げないといけない。三重とこわか国体で日本一になるチームを作らなければならない」三重のラグビー関係者の新たな目標が生まれた。
 「三重とこわか国体で優勝する女子チームを作る」。三重県ラグビー協会はその大役を、四日市工業高校ラグビー部監督の斎藤久に託した。彼は朝明高校ラグビー部を6度、花園に出場させた名将だった。斎藤は四日市工業高校ラグビー部監督を兼任する形で、女子ラグビーチーム設立の責任者となった。

いきなり全国トップクラスのチームを作る

 斎藤が目指したのは、いきなり全国トップクラスのチームを作るという強気なものだった。
 「アマチュアの選手を集めて同好会のような形で立ち上げ、その人たちから会費を集めて運営する…。よくあるそういうチームを作ることも最初は考えたんですが、やはりやるなら、最初から企業スポンサーを頼って、それなりのブランド力のあるチームを作ろうと思ったんです。強くなってからプロを目指すんではなくて『最初からこのレベルを目指します!』って宣言して、それに見合った選手を集めることにしたんです」。
 斎藤は朝明高校ラグビー部監督時代の後援者に協力してもらい、スポンサーを募った。しかし女子ラグビー自体がマイナーなうえ、選手もいない。ゼロからのスタートだった。
 「こんなチームを作るからスポンサーになって下さい、といっても、実態がないわけですから、企業の担当の方たちも悩まれたと思います。でも、私の意気を感じてお力添えを頂いた方たちのおかげで、今、立ち上げから5年ですけど、パールズは私自身の想像を超えるスピードで進化していると思います」。
 1年目こそトップ選手7名 スポンサー企業6社だったが、2年目は選手12名、スポンサー企業18社と順調に増えていった。選手は三重県だけではなく、県外や外国からも集まった。斎藤は彼女たちをスポンサー企業に雇用してもらう等、安心して三重でラグビーに取り組んでもらうための環境作りにも努力した。
 創部1年7か月の時、太陽生命シリーズに招待チーム枠で出場した。そこで奇跡が起こった。パールズはなんとその大会で優勝してしまったのだ。
 「その瞬間がパールズとして一番大きな感動でしたね。そこから常勝チーム、常に日本一を目指すチームを作ろうという気持ちが一段と強くなりました」。
 以降、パールズは昨年度は総合成績3位、一昨年度は2位と、女子ラグビー界屈指の強豪チームとなる。パールズが短期間で強いチームになった理由を、斎藤はこう語る。
 「チームは少しづつ強くなっていくじゃないですか。ゆっくり時間をかけて。でも『このレベルのチームを作りたい』という目標がしっかりしていれば、そのレベルの人がきてくれるし、それはスポンサー企業様を集めるのも、コーチングスタッフを集めるのも同じだと思っています。大きな夢を掲げ、みんなが力を合わせれば夢が実現できることを信じてもらえるようにすることが、トップをまかされた者の仕事だと思います」。

高校からラグビーをはじめる

 斎藤がラグビーを始めたのは高校1年生の時。それまでサッカーをやっていたのだが、足だけを使うサッカーではなく、全身を使うラグビーのとりこになった。ポジションはスタンドオフで背番号10番。キャプテンではなかったが、チームの中心的存在だった。ラグビーにのめりこむにつれ「将来は高校の教師になってラグビーを教えたい」という夢を持つようになった。
 そんな彼に、突然ピンチが訪れた。高校3年生の春、骨折してしまったのだ。大好きなラグビーができないのはもちろん、大学に進学して教員になるという夢もあきらめなければいけないかもしれない。でも、ここで諦めるわけにはいかない。斎藤は必死でリハビリをした。半年後、またグラウンドに戻ることができた。花園の予選も、大学の推薦入試の受験も、なんとか間に合った。しかし高校3年生の最後の大会では、準決勝で志摩高校に破れ、夢だった花園は実現できなかった。
 高校を卒業し、大阪体育大学に進んだ。大体大ラグビー部は部員140人を擁する強豪チーム。「レベルが高すぎてついていけない」。三重の無名校出身の斎藤にとって、はじめて体験するトップレベルのラグビーだった。
 しかし必死の努力の結果、3年生からレギュラーを獲得。2度、関西リーグで優勝し、全国大会にも出場した。大学選手権では明治大学に勝利する金星を上げたが、準決勝で早稲田大学に敗れた。しかし、5万人の観客がはいった国立競技場でプレイできたことは、何ものにも代えがたい素晴らしい経験だった。
 「がんばれば三重県出身の私なんかにでもチャンスがあるんだなと思いました。もしかしたら日本代表に手が届くのでは?と思ったこともありました。実業団からお誘いもありましたから、実業団に進んでラグビーを続けるという選択枝もあったのですが、やはり以前からの夢である『地元で教員をやりながら、私が味わったような感動をラグビーを通じて生徒たちに味あわせてあげたい』という道を選びました」。

ラグビー部を設立し、強豪チームへ

 斎藤は大体大を卒業、教師として社会人生活をスタートさせた。最初の赴任先は度会高校だった。度会高校にはラグビー部がなかったので、ソフトボール部の顧問をやった。3年間務めた後、25歳のとき朝明高校に転任。しかし朝明高校にもラグビー部がなかった。ラグビーを教えたくて教師の道を選んだのに、ラグビー部がない。斎藤は校長に直談判した。
 「ラグビー部を作らせて下さい。私はラグビーを教えるために教師になったんです。ラグビーができない環境で教師をする意味がありません」。
 校長は言った。「そんなにやりたいなら、やってみろ」。
 校長の後押しを受けて、斎藤はラグビー同好会を作った。ゼロからのスタートだったが、次第に部員も増え、強いチームになっていった。しかし4年目、部員が大量に辞めるという出来事が起こった。指導が厳しすぎることが原因だった。
 「若いころは、自分の理想ばかりが先行して、子供たちの想いに向き合うことができなかったんでしょうね。強くはなっているけど、ラグビーを楽しむという指導ができていなかったと思いました」。
 それ以外にも苦労は絶えなかった。朝明高校は当時、やんちゃな子が多く、問題行動を起こす子や学校を辞めてしまう子も少なくなかった。
 「ラグビーに打ち込んでもらいたいけど、それ以外の部分にエネルギーを使ってしまうんです。でも、学校に来ない子が、ラグビーが好きになって、ラグビーをするために学校にくるようになったりすると、やはり嬉しいですね」。
 朝明高校ラグビー部は順調に強くなっていった。監督就任13年目で初の花園出場を果たすと、以後、在籍24年間の間で6度、花園に出場。朝明高校ラグビー部は常勝チームになった。
 2016年4月、四日市工業高校に転任。ラグビー部監督として同チームを3年連続で県大会決勝に導いた。

『ラグビーを教える』から『ラグビーで教える』へ

 斎藤は経験を積むうちに、指導に対する考え方が変わっていったという。
 「当初は『ラグビーを教える』指導者を目指したんですが、教師になって後半は『ラグビーで教える』という考えに変わりました。人生をどううまく生きていくかを、ラグビーを通して学んでもらいたいと思うようになりました。一番大切なことは、自主自律の精神だと思うんです。納得がいかないのに強い指導や強制力で動かされると、どこかでさぼろうとする。納得できないまま嫌々やることになる。ですから、できる限り若いころから自分で考え、自分で自分を律する。大人がダメだということは、なぜだめなのかを自分で考え、納得した上で行動する。そういう『自分で考える力』を、ラグビーを通じて学んでほしいと思うようになりました。そういう考えに変わったのは、私自身が挫折を経験したからでしょうね」。

教師を退職しパールズの専任に

 斎藤は四日市工業に転任するのと時を同じくして、パールズのゼネラルマネージャーに就任。4年間、パールズのマネージメントをしながら四日市工業のラグビー部を指導するという生活を送った。しかしパールズに専念するため、2020年3月、教師を退職した。
 「両立はやはり物理的にむずかしかったです。体はひとつですし、思考もひとつですし…。それで数年前から悩んでいたんですが、パールズが軌道にのってくると、やはり専任ではないと難しいということで、教師を退職しました。それに、選手たちは会社や教員を退職して三重にやってきています。海外から故国を離れて来てくれた人もいます。みんな、リスクを負ってチャレンジしにきている。ですから、私自身も『リスクを負わなければいけないんじゃないか』と強く思うようになったんです」。

一番大切なこと、将来の夢について

 高校ラグビーの指導とパールズの指導で違う点はなんですか?という問いに、斎藤は「本質的にはかわらない」と答えた。
 「高校の部活動は教育を前提にしています。でもこのパールズの活動も、教育現場で求められている姿と変わらないと思います。ラグビーが強いから何をしてもいい、ではダメなわけで、自分のレベルを上げるためには、考え方、立ち振る舞い、スポンサー企業様に対してどう恩返しをするか?を常に自分で考えないと。勝って恩返しをするのはもちろんですが、それ以外の部分もとても大切なんです」。
 最後に5年後、10年後への目標を語ってもらった。
 「女子ラグビーをもっとメジャーにしたいですね。今よりステイタスの高い世界で選手たちがラグビーに打ち込めるようにしたい。ラグビーワールドカップ日本大会が盛り上がったじゃないですか。男性のラグビーに負けず劣らず、女子ラグビーもたくさん注目してもらえる環境にしたいです。他のチームの関係者は勝ち負けを争うライバルですが、同じ女子ラグビーに携わる仲間として、力を合わせてやっていきたいと思っています。あと選手たちには、世界を目指せ!といつも言っています。代表に入ってワールドカップやオリンピックに出場することで、より高い次元に羽ばたいて欲しい。いろいろ夢は大きいけれど、一歩一歩やっていくしかないと思っています」。

斎藤 久

1966年、四日市市生まれ。大阪体育大学卒。教員として度会高校、朝明高校、四日市工に着任。朝明高校ラグビー部監督として花園6回出場、四日市工業ラグビー部監督として県大会準優勝3回という実績を残す。2016年、女子ラグビーチーム、パールズのGM就任。2020年3月、教員を退職し、パールズ専任に。

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