三重の歴史

三重と平家物語 – 橋本堅

「三重県って地味な県だなぁ」というのが、小学校で歴史を習い始めたときの私の感想でした。
 子どもだった私が、小学校で習う歴史の教科書を隅から隅まで見ても、三重県にゆかりのある歴史上の人物や事件はほとんど記述されておらず、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった戦国時代を彩った人物を輩出した愛知県や、坂本龍馬や西郷隆盛といった幕末の志士と呼ばれる人々を輩出した高知県や鹿児島県がうらやましくて仕方ありませんでした。
 そうはいっても、その時代にその人物が何を考えてどうしたのか、という興味から歴史そのものは大好きでした。長じてきても歴史への興味は変わらなかったのですが、どちらかというと日本歴史の流れの変化をつかむことが面白く、実際のところ郷土史そのものにはさほど関心が高くはなかったのです。
 あるとき、荘園についてあれこれ調べているときに、長い日本歴史の流れの中にターニングポイントになるところが二カ所しかないことに気づきました。荘園制はそのターニングポイントに深く関わっているのです。
 その荘園の発展から消滅に関わるのが武士の存在で、その武士による日本で最初の武家政権を作ったといってよいのが平氏でした。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有り
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ

 あまりにも有名な「平家物語」の一節です。この「平家物語」と三重県の関係をご存じでしょうか?この「平家物語」の中心人物の一人である平清盛とその一統は、伊勢平氏と呼ばれる人たちでした。
 そもそも平氏は、桓武天皇の曾孫にあたる高望王が平の姓を賜って臣下になったのを始まりとしています。彼らの一部は生きるために武士となって主に関東地方で活動しますが、その中の一人に歴史上の人物として名高い平将門もいました。やがて、関東で活動していた人々の一部の人たちがこの三重県にやってきて根を下ろします。この人々が伊勢平氏と呼ばれるようになるのです。
 伊勢平氏は、平将門を討った平貞盛の子である維衡を祖とする一族で、伊勢国に来てから次第に勢力を広げ、やがて安濃津、桑名、富津((戸津)今の多度)と北勢地方を中心に勢力を伸ばしていきます。
 安濃津は、古くから大陸にも名を知られた伊勢海の良港で、伊勢神宮とも深い関わりがある港でした。桑名は木曽川、揖斐・長良川の河口に位置し、水路の要衝だったところです。富津(多度)は尾張に渡るための要衝でした。

 ここで、富津(多度)が尾張に渡るための要衝と聞いて不思議に思われる方もいるかも知れません。現在、多度から名古屋方面に行こうとすると、国道258号線から橋を渡り、木曽三川公園のそばを通って今の愛西市を抜けて・・・と陸路を使っていくことになるのですから。
 しかし、当時の海岸線は今よりももっと内陸部にありました。奈良時代に作られた「尾張太古之図」によれば、当時の海岸線は現在の桑名、大垣、岐阜、犬山、小牧、名古屋市緑区付近を結んだところにあったようで、多度付近はおおざっぱに言って、養老線が走っているところ位までが海岸線だったと考えて良いでようです。
 そして、桑名の当時の海岸線は、奈良時代に建立された寺院が国道1号線よりも内陸部に位置していることから、現在の海岸線よりも更に内陸部に海岸線があったと考えて良いでしょう。
 伊勢平氏が活躍するのはもっと時代が下った平安時代末頃ですから、奈良時代よりはずっと海岸線は前進していると思いますが、それでも今よりも内陸部にあったことは間違いありません。

 さて、彼らが河口や港を掌握しようとしたのには理由があります。
 当時、内陸部に人や沢山の荷物を早く運ぶためには、川を使って船で運ぶことが最も合理的でした。ですから、河口や港を掌握するということは、内陸部と海とをつなぐ物流の拠点を掌握するということなのです。河口付近の港は、現代でいうハブ空港のようなものでしょう。人や物資が沢山集積するところにはお金と情報が集まります。それが彼らの狙いでした。
 そして、安濃津や大湊は、平安時代よりももっと昔から関東地方との交易が盛んだった所です。そのため、京の都から関東地方に行くには、この伊勢海まで陸路を通り伊勢から海路を使って関東地方に行くのが、当時の最も合理的なルートでした。

 このことは、時代が下って北畠氏が南伊勢をその根拠地とした事とも大いに関係があります。
 さらに、九州などとの交易にも大変重要な地でもありました。なぜなら、当時の航海技術では、瀬戸内海から紀伊半島の沖合を突っ切って直接関東地方に行くことは出来ず、尾鷲から伊勢海にかけてのエリアを中継基地にする必要があったからです。このことも伊勢平氏と呼ばれた人々がこの地に根を下ろした理由の一つにもなります。
 元々、彼らは瀬戸内海の海賊対策を中央政府から命じられて、瀬戸内海で大変活躍をします。その時に、瀬戸内海の海賊たちを上手く手なずけて協力関係を築くのです。
 更に、伊勢平氏は熊野水軍とも密接な協力関係にありました。彼ら伊勢平氏が熊野三山を深く信仰したのも、このことに関わりがあるかも知れません。
 こうした背景から、いわゆる源平合戦では平家は水軍に強いとされたのでしょう。
 つまり、伊勢平氏は瀬戸内海や伊勢海を家とし、その交通の要衝を掌握することで成長していったと言えるのです。後に、清盛が厳島神社を建立したり、兵庫県の福原(現在の神戸)の港を大改修して大船が入れるようにして日宋貿易に力を入れていくことも、この伊勢平氏の成り立ちの影響かも知れません。

 このように重要な港を掌握していった彼らは、その土地の名前を名乗るようになります。
 維衡の孫にあたる貞衡は安濃津三郎を名乗り、その子孫たちはその他に桑名富津二郎や桑名三郎などと名乗ったりしました。
 この貞衡の一統とは別に、貞衡の兄弟で正衡という人物がいました。この正衡の曾孫が平清盛で、正衡の一統が力をつけてくるようになると、いつしか貞衡の一統は伊勢国から姿を消してしまいます。
 そして、清盛は父忠盛や祖父正盛の努力の甲斐あって、中央政界で徐々にその存在感を増していきます。
 そんな中、都中を巻き込んだ保元の乱、平治の乱がおき、その両方に勝つことで清盛は源氏を退けて中央政府での地位を揺るぎないものにしていきます。
 この保元・平治の乱を描いた軍記物に、古市の白児党という集団が出てきます。彼らは、鈴鹿を中心として今の河芸から四日市あたりまでに地盤を持っていたようですが、彼らも清盛ら伊勢平氏に協力することによって、その勢力を成長させていったのかも知れません。
 こうして、地方の一軍事貴族だった伊勢平氏一統が、この伊勢国を足がかりにして中央政府の実権を握っていき、「平家物語」に描かれたように栄華を極めていくことになるのです。

 伊勢平氏が活躍した平安時代末頃は、ざっと今から千年ほど時代を遡った頃のことです。その中でも平清盛は、ごく短期間ではありましたが日本最初の武家政権を打ち立てるという日本歴史の上でエポックメイキングな事柄をやり遂げます。
 かつてはここ三重県にそんな人物がいたんだよ、と子どもの頃の自分に教えてあげたくなります。

著者 / 橋本堅氏プロフィール

行政書士社会保険労務士オフィスはしもと代表
歴史研究家
愛知県津島市生まれ。2014年サラリーマン生活にピリオドを打ち独立。オフィスはしもとを主宰する傍ら、三重県の隠れた歴史の魅力を再発見するために執筆活動を行う。

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