三重の企業人たち

株式会社竹屋 / 竹尾純一会長

竹尾純一

【取材/2012年】
シュークリームの生産量日本一を誇る洋菓子メーカー「竹屋」。フランチャイジーとしても、多数の店舗経営を成功させてきた。創業以来、様々なビジネスを展開しながら、着実に事業規模を拡大させている。その60年の歩みを、現会長の竹尾純一氏に語ってもらった。

菓子問屋から菓子メーカーへ

 竹屋を創業したのは、父・竹尾雅生だった。戦時中、海軍燃料所にいた雅生は、終戦後、海軍燃料所の先輩たちと映画館をはじめた。映画は当時、最大の娯楽で、映画館は大盛況だった。昭和24年、雅生は菓子屋を始めた。当時は甘いものが珍しかったため店は繁盛した。雅生は映画館経営から手を引き、昭和25年に株式会社竹屋を設立。菓子問屋業にも進出した。伊勢湾台風により商品が水びたしになるといった困難もあったが、仕入先や小売店の援助で何とか乗り切った。商売は少しずつ大きくなっていった。
 ちょうどその頃、東大の林教授の「流通革命論」という本の中で、スーパーマーケットなどアメリカの新しい流通形態が紹介され「これからは問屋が不要になる」ということが書かれていた。雅生はこの本に強い影響を受け、「問屋だけではだめだ」そう思った雅生は、昭和36年、四日市市堀木町に工場を建設し半生菓子の製造を始めた。昭和43年には小生町に工場を移転し、翌44年に問屋部門を廃止して、菓子製造と小売業でやっていくことになった。
 ちょうどこの年、純一は森永乳業を退社し竹屋に入社した。長男の博光も既に竹屋に入社していたため、竹屋は雅生と博光、純一の親子体制となった。主に雅生が対外的な仕事、博光が管理部門、純一が営業を担当することになった。
 その頃の竹屋の業務内容は驚くほど多彩で、メーカー部門は栗まんじゅう、カステラなどを手掛け、店舗部門はステーキレストランや甘味の店、どら焼きの店等を運営していた。カップラーメンの具材を作っていた太陽化学の依頼で、カップヌードルに入れる具材も作り始めた。業績は一進一退といった感じだった。

ミスタードーナッツのフランチャイジーで成功

 そんな竹屋に転機が訪れた。ミスタードーナッツのフランチャイズを始めることになったのだ。昭和50年、雅生は四日市市駅前にミスタードーナッツ一号店をオープンさせた。
「父は色んな商売をやってきましたが、会社経営の管理手法を知らないまま勘だけで突っ走って来たように思うんです。でもミスタードーナッツの経営システムを学んだことで、竹屋は大きく成長することができました」。
 ミスタードーナッツのシステムは当時の最先端をいくもので、店舗運営、品質管理、金銭管理、従業員管理など、純一が知らないことばかりだった。例えば、アルバイトを大量に募集してシフトを組む勤務形態は、今では当たり前だが、当時はどこもやっていなかった。 「それら最新の経営管理システムを試行錯誤なしで勉強できたことは、本当に幸運でした」。
 またミスタードーナッツのシステムは、精神的な部分でも純一に大きな影響を与えた。ミスタードーナッツのフランチャイズをやるには「ミスタードーナッツアカデミー」を卒業しなければならない。そのカリキュラムの中に、京都の一燈園(※)で研修を受けるというものがあった。その研修は風変わりなものだった。「街へ行って『トイレ掃除をさせて下さい』と言って頼んで回るんです。でも見ず知らずの人に掃除されるのは嫌ですよね。ほとんど断られます。それでも百軒に一軒はやらせてくださる家があるんです。そうなると、もう大喜びでトイレ掃除をさせていただくんです」。
 このアカデミーを純一は無事卒業した。
「何事も損得より善悪を優先してやらなければいけないんだと思えるようになりました。ビジネスばかりやっていると、自分の人生を真剣に考える時間はなかなか持てないものですが、それを持てたというのは本当に良かったと思います」。
 その頃、純一にとってもう一つ、衝撃的な出来事があった。ジャスコ(現イオン)創業者・岡田卓也名誉会長の話を聞いたことだ。雅生はジャスコの前身・岡田屋に商品を納入していた関係で岡田氏とは懇意だった。純一と兄・博光はホテルの一室で岡田氏と会った。「会社を大きくするにはどうすればいいでしょうか?」。当時30代前半で血気はやる2人に、岡田氏は言った。「死ぬ気でやれるかどうか。そして『死ぬ気でやったけどダメでした』と言って、生きてるようじゃ死ぬ気でやったことにはならない」。博光と純一は岡田氏の気迫に圧倒される思いだった。
 ミスタードーナッツ経営は大成功だった。昭和53年にはケンタッキーフライドチキンも始めた。外食ブームに乗って事業は順調に拡大。雅生はどんどん店舗を増やしていった。お菓子メーカーだった竹屋が、外食企業になっていった。逆にメーカー部門はかろうじて残っていたが、慢性的な赤字だった。

プリン、シュークリームをヒット商品に

 昭和55年、純一は雅生から「メーカー部門の責任者をやってくれ」と頼まれる。雅生は純一に言った。「何とか立て直してくれ。潰しても文句は言わないから、やれるだけやってくれ」。
 まず純一が変えなければならないと思ったのは、社員のやる気だった。メーカー部門の社員は気落ちしていた。純一は思った。
「自分たちの作ったモノが飛ぶように売れたら社員たちは嬉しいだろうな。儲かるか儲からないかは経営側の問題。とりあえず採算は度外視して、製品が売れるようにしよう」。
 そこで純一は、プリンを3個100円で売ることにした。当時、グリコや森永のプリンは1個70円。2分の1の値段だった。スーパーで1日に売れるプリンは平均1ブランド20個程度。これに対し、竹屋のプリンは1日2千個売れた。最初は赤字だった。しかし、販売する店舗を増やしていくと次第に赤字は減り、やがて大幅な黒字に変わった。
「固定費分散(※)という考え方です。例えば100円固定費がかかる設備で10個作れば1個10円ですが、100個作れば1円になります」。
 プリンが儲かった秘密はもう一つあった。低温管理が必要な商品の流通経路は、まずメーカーがデポに卸し、デポが牛乳販売店に卸し、牛乳販売店がスーパに卸すのが一般的だ。しかし竹屋はそうした流通ルートを持っていなかった。そこで純一は魚市場に目をつけた。「魚は販売店までずっと冷蔵で届けられます。途中で温度が上がるようなことは絶対ない。だから中央卸売市場に売ったんです」。
 市場は現金商売で、納品すると1週間後には現金を振り込んできた。返品もなかった。逆に原料代の支払いは1ヶ月後でいい。この入金が先で支払いが後というタイムラグのおかげで、回転差資金が生まれた。
「普通は売上が急激に上がると資金繰りに困るんです。売上の回収が間に合わなくなりますから。黒字倒産というのはそういう事なんです。でも市場に卸したおかげで、そんな心配は皆無でした」。
 その後、昭和57年にはシュークリームの生産にも乗り出す。普通、シュークリームのメーカーはシューだけを作り、クリームは他のメーカーから買うところがほとんどだった。純一は「美味しいクリームを自社で作れば勝てる」と考えた。当初は困難かと思われたクリームの生産だったが、やってみるとうまくいった。生産量が増えるにつれ工場が手狭になったことから、昭和63年、15億円をかけて現在の地に本社工場を新設。今ではラインは88つに増え、シュークリームの生産量は日本一(※)になった。
「現在は外食部門と菓子製造部門が竹屋の売上の両輪です。ミスタードーナッツ、ケンタッキー、プリン、シュークリーム等、それぞれ10億規模の売上の柱を立ててきました。今後の課題は、次の柱をもう一本増やすことです。柱が多い方が会社は安定しますから」。

(※1)西田天香が始めた「己を捨て無欲になる」という教えを解いた団体。特定の崇拝対象を持たないため、宗教のようだが厳密に言うと宗教ではない。一種の思想集団のようなもので、多くの企業がここで社員研修を行っている。ミスタードーナッツの親会社ダスキンの創業者・鈴木清一はこの教えを元に「祈りの経営」という理念を掲げた。
(※2)純一はこの理論を「マネジメントゲーム」を通して習得したと言う。マネジメントゲームはボード型のビジネスゲームで、昭和51年に西順一郎がソニーCDIで開発した。ゲームをやりながら活きた経営学、会計学を身につけることができる。
(※3)中玉シュークリームとエクレアの生産量は1日約50万個、年間では約1億7千万個。

株式会社 竹屋

〒512-1211 四日市市桜町963-1
TEL.059-326-7722
WebSite http://www.takeya-ltd.co.jp/

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