三重の歴史

ノスタルジック写真館~三重に現存する近代建築、洋風建築、産業建築物たち~

旧東洋紡績株式会社富田工場

四日市市富州原町221-1(イオンモール四日市北内)

イオンモール四日市北、通称「北ジャス」の中に建つレンガ造りのこの建物。現在では内装が一新され、飲食店等が営業している。東洋紡績は四日市の事業家・伊藤傳七が創設した三重紡績と、大阪紡績が大正3年に合併して誕生。この富田工場は対象7年に完成した。敷地は20万平方メートルで、東洋紡績の中では最大規模を誇った。現在ではこの原綿倉庫だけが残っている。登録有形文化財。

旧朝日村役場

三重郡朝日町小向872

大正5年に建てられた旧朝日村の役場で、現在は朝日町歴史資料館として使用されている。木造2階建。全体的には洋風だが入口だけは和風で、近くの駐在所の玄関を移築したものとのこと。1階が事務室、2階は議場として使われた。地方役場の特徴を色濃く残す建物だ。昭和39年、役場としての役目を終え公民館に。昭和53年、歴史資料館となる。登録有形文化財。

旧四郷村役場

四日市市西日野町3375

元東洋紡績社長で県下有数の経済人であった伊藤傳七が、郷土への恩返しにと大正10年、6万円という大金を寄付し建設した。木造2階建てで一部塔屋は3階建て。当時としてはハイカラな村役場で、村民自慢の建物だった。それから60年、傷みも激しくなり取り壊しの運命にあったが、地元住民の存続運動の結果、昭和57年、四日市市の有形文化財の指定を受け保存されることに。現在は四郷郷土資料館となっている。

旧安濃津監獄正門

津市修正町(津刑務所内)

大正5年に建築されたレンガで組みの重厚な監獄正門。明治期に建てられた五大監獄(長崎や鹿児島など)の正門と異なり、装飾を抑えた質実剛健な造り。「安濃津監獄」の文字が右から左に書かれている。現在は津刑務所内に、歴史的資料として保存されている。

末広橋梁

四日市市末広町・千歳町

四日市港内の千歳運河に架かる全長58mの鉄道可動橋。タワーの高さは15.6m。竣工は昭和6年で、設計はこの分野の第一人者の山本卯太郎。全国に17の鉄道可動橋があるが、今なお現役なのはこの末広橋梁のみ。可動橋として初の重要文化財指定されている。以前は船が通る時だけ跳ね上げていたが、平成11年より列車が通る時だけ降ろすようになった。

諸戸貯水池跡

桑名市尾野山

桑名の豪商・諸戸清六が作った上水道施設の貯水池跡。精六は東方丘陵地の地下水を自宅に引き自家用水道を完成させ、余った水を無償で人々に提供した。その後、本格的な水道建設に着手。近代的な上水道としては全国で7番目という上水道を完成させた。この貯水池は地下水を貯めるために作られ、当時は上に建屋があった。水道は諸戸清六没後、桑名市に寄贈された。

旧亀山製糸室山工場

四日市市室山町

現在は閉鎖されているが、かなり大きい美しい洋風近代建築物。旧四郷村役場のすぐ近くにある。亀山製糸の第二工場として明治36年に建築された。製糸工場ならではの蒸気を逃がすため越屋根と呼ばれるものが屋根の上にある。取り壊しの計画があったらしいが、その後どうなったかは不明。かなり痛みがひどい。

旧四日市図書館

四日市市諏訪栄町22-25

昭和天皇の即位を祝う御大典記念事業として、熊澤一衛が昭和4年に建設し、図書2,000冊とともに四日市市に寄贈した図書館。熊沢は伊勢電気鉄道の社長や四日市銀行頭取などを務めた四日市を代表する事業家。太平洋戦争末期に空襲による負傷者の収容施設に使われたこともあったが、昭和24年に再び図書館として復活。昭和48年に新図書館が完成すると、と、昭和51年から児童福祉施設「こどもの家」となり、平成15年(2003)からは、すわ公園交流館として今日に至る。三重県内では数少ない初期の鉄筋コンクリート造りの建築で、昭和初期の建築構造やデザインの特徴をよく伝えている。

旧三重県立工業高校製図室

松阪市殿町1417(松阪工業高校内)

明治35年(1902)に応用化学科専攻の5年制工業学校として全国にさきがけて開校された。当時は実験に使用する硫化水素の影響で建物の塗料が黒変すると考えられていたため、校舎の外壁は変色しない朱(硫化水銀)で塗られていた。この色のため創立早々から赤壁(せきへき)と呼ばれる。現存する唯一の赤壁校舎である

アミカン本社

四日市市富田浜元町1867

アミカン株式会社は寛政6年(1794)創業で、明治31年(1898)にわが国初の手動式製網機を開発した。正門、事務所、煉瓦塀の3点が登録文化財に指定されている。本社事務所は、木骨コンクリート造2階建塔屋付の建物で、スクラッチタイル貼りとモルタル洗い出しの外壁に、縦長窓を効果的に配置して変化のあるデザインが施されている。

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