四日市看護医療大学 学長 丸山康人がホストを務める「プラス対談」。今回のお相手は日沖靖いなべ市長。大変お忙しい中にもかかわらず、本誌のインタビューに快く対応していただいた。幼少の頃の思い出から市長への道のりまで、なかなか聞くことのできないユニークで貴重なお話をうかがうことができた。
丸山 今日はよろしくお願いします。実は私、インタビュアーを務めるのは初めてなものですから、うまくできるかどうかわかりませんが、いい対談ができればと思っています。市長は昭和34年3月、いなべのご実家にお生まれになって、大安中学校を卒業後、桑名高校へ入学されましたが、どんな学生時代を送られましたか?
日沖 高校入学時はまずまずの成績でしたが、それから落ちて、落ちて。生徒は普通科、理数科で三百二十名くらいだったのですが、1年末の試験では、三百何番まで行きましたので。おお、これは何とかせねばと思って。3年時の成績で頑張れば受かると言われた北海道大学農学部(理類)を受けましたけれども、だめでした。私は農機具屋のせがれなんです。だから農学部しか受けちゃいけないと。
丸山 家でそういうふうに言われていたんですか?
日沖 直接言われてはいませんが、暗黙の了解で。兄貴がいますが、アメリカで空手の道場をやっていて、全然。
丸山 ご兄弟とも運動神経が優れているのですね。
日沖 そこそこです。とびきり良くてドラフトに入るような運動神経はないです。けれども、こつこつはやってきましたね。
丸山 その後、京都大学の農学部に入学されますね。
日沖 そうです、1年浪人して。東京で駿台予備校を受けたら京都校しか受からなかったんです。だから京大に。当時の下宿と予備校の間に大学があって、同級生が京大にいましたので、生協のカードを借りて学食を利用させていただいていましたね。刺激も受けました。
丸山 学生時代はずっとアメリカンフットボールを?
日沖 いや、違うんです。初めは、尺八や柔道のクラブに入ったり、兄がしていた極真会という空手をやってみたり。1回生の最後に、同じクラスのフットボール部の子たちに誘われました。その頃、京大は強かったんです。そこそこ運動能力がある者を勧誘してこいというお触れが出たそうで、大学近くの喫茶店でAランチをご馳走になって入部。フットボールのフの字も知らなかった。
丸山 それから3年間?
日沖 2回生の時に入部して、4回生でキャプテンをやらせていただきました。その時の成績は準優勝なんですが、関西学院大学にぼろ負けしたんですよ。0対48で。監督に「今年一年、俺以上にフットボールのことを考えたやつは手を挙げろ」と言われて、挙げられなかった。選手登録は4年間できるんですが、私は2回生から始めたので、まだ1年残っていた。打倒関学!って留年して、もう1年やらせていただいて、翌年は勝ちました。
丸山 その時は甲子園ボウルですね?
日沖 はい。われわれが京大で初めてでした。その時の副将の藤田俊宏君が、春の関学との試合でくも膜下出血で倒れて亡くなって…。ですから、弔い合戦という意味合いもあって。
丸山 大学の農学部での勉学のほうは、どうでしたか?
日沖 学校の単位だけはすぐに取りました。土壌微生物の教室にいましたが、卒業論文は必須じゃなかったんですね。ですから「卒論は結構です。他で単位を取りますから」とお断わりしました。
丸山 大学卒業後、住友商事大阪本社に勤務されるわけですが、その時はどのようなお仕事に携わっていらしたのでしょうか?
日沖 商社を選んだのは、交渉力を身につけたいと思ったからでした。もともと人前で話すのは大の苦手で…。実家の農機具屋の後継ぎをどうするかとなった時に、兄貴が継がないなら自分が継がなくてはと思ったんです。フットボール部の監督からも「敷かれたレールを走るのは面白無いやろ。とりあえずやってみて、だめだったら思いきって戻ってくればいいじゃないか」と言ってもらって。それで、まずはビジネスの世界で経験を積もうと。商社なら苦手な英語もやらざるを得ないだろうということで、あえて選びました。
丸山 商社時代は何をご担当されていたのですか?
日沖 医薬品の輸出入でしたね。日本の製薬メーカーの薬の原体の輸出入とかライセンス関連の仕事でした。会社にいたのは5年ですが、お蔭様でその時に、ビジネスのイロハを身につけさせていただきましたね。例えば、インドメタシンという消炎鎮痛剤があるんですよ。日本では住友化学がメインでしたが、製造特許はアメリカの会社が持っていた。当時、住友化学もコスト削減のために自社生産から輸入に切り替える検討を始めていて、われわれ住友商事が世界の生産拠点とコストのサンプリングをやって提案をしたら、本家本元のアメリカの生産コストが高かった。そしたら逆転の発想で「じゃあ、輸出しよう」と。輸入のための検討だったのに、自分たちより高いところがあるなら輸出しようと。「あ、これがビジネスか」と思いましたね。決められた通りではなく臨機応変に対応すればいいというのは、その時に教えてもらいました。
丸山 いいところに配属されましたね
日沖 実は大学での勉強は農薬についてだったので、畑違いなんですよ。入社時に「理系だから、まあまあいけます」なんて言いましたが甘かった。入ったら東大の薬学部出身者ばかりでしたね。薬事法もわからなかったし。「小学校からやり直せ」と何回言われたか…。
丸山 いい経験になりましたね。それが突然、今度はオクラホマに旅立つのは、どういった経緯で?
日沖 会社はリクルートも兼ねて、私を大阪に配属したようなんですが、週末は全て大学のフットボールの練習に参加していました。京都府がアメリカのオクラホマ州と友好提携を結んでいる関係で、フットボールの強豪オクラホマ大学に京大から誰かを派遣しないかと言う話が、知事室から来て。監督に打診を受けて「会社辞めて行きます!」と即決。それで留学させてもらったんです。フットボールはNCAA(全米大学体育協会)のルールで細かく決まっているので、その枠外の体育学部の助手という形で。助手と言っても給料も無いし、自分でやれみたいな感じでしたね。職員証はもらえたので食堂などは行けましたが。だから毎日、コーチング練習とフットボールオフィスの行き来でワンシーズンを過ごしました。
丸山 もうその頃はアメリカでの生活を楽しんでいらっしゃった?
日沖 いや、相当馬鹿にされました。「そこの黄色いの、お前何しに来たんだ」「体も小っこいし、何ができるんだ?」と、そんな感じでした。1部の強豪で、みんなプロに行くような子ばっかり。私がいた頃はずっとナンバーワンでした。もう完成品みたいな感じでしたので、まだ発展途上のところをコーチングしたいと思い、2年目はミネソタ州立大学に行きました。オクラホマにいた時に参加したサマーキャンプで監督から誘っていただいて。2部ではありましたが、今度は正式なコーチでした。
丸山 その後、京大に戻られたんですね?
日沖 そうです。専任コーチとして戻りました。ですが、半年くらいで親父が倒れてしまい…。
丸山 そういうことだったんですね。
日沖 親父が解離性大動脈瘤という病気で。京大の医学部の友人連中に聞いてみたら、3カ月で9割亡くなる病気だと。「危ないよ。早よ帰れ!」と言われて帰ってきたら、親父が元気になったんです。手術もせずに。これは何かの詐欺かという感じですが。奇跡的に持ちこたえて、手術もせずに、その後15年間、80歳まで生きてくれました。
丸山 それで家業に従事されることになったわけですね。農機具の販売をなさっていたんですか?
日沖 農機具の販売とガソリンスタンドですね。燃料とセットで。でも両方とも構造不況業種になりかけていた感じで、私は商社の経験上、工場や企業関係のセールスのほうが得意でしたので、ちょうど員弁にトヨタ車体さんとか神戸製鋼さんとかが来た時期でしたから、そちらのセールスに行きました。
丸山 自分の方針で随分新しい経営に変えていかれたわけですね。
日沖 父もやっぱり構造不況業種という認識はあったんですよ。徐々に形態を変えざるを得ないなという。でも、元手が無い。元手がいらないビジネスは何かと考えて、保険代理店を始めました。一時は保険会社の兼業代理店の中で県下一番になったことも。「向いているから地域限定の社員にならないか」と誘われたんですが、お断わりしました。自分で儲けるからと。なにか根拠のない自信がフットボールでできました。最後に関学に勝てたという。
丸山 確かに。その成功体験があるんですね。
日沖 世の中頑張れば何とかなるという。そういう体験で何事も悲観的に考えず、楽観的に考えられるようになりました。大学受験の時もありました。現役で北海道大学を落ちて、電話で不合格と聞いた時はショックだったんです。受かるつもりだったんで。けれど、落ち込んだのは何秒くらいかな。1分もないくらい。逆に「よっしゃ、これで1年余裕ができた」と。
丸山 フットボールの成功体験の前に、もともと楽観的な性格でもあったのですね。
日沖 そういう発想はしますね。
丸山 ここまでの履歴を見ても、かなり直感的に行動されますよね。
日沖 行動が先ですね。とりあえず走りながら考えるという。
丸山 この後、選挙に出馬されますね。その時、確か事件があったと記憶していますが?
日沖 そうです。その年の6月の町長選挙の後、当選した前職が汚職で捕まって、落選した競争相手は既に公職選挙法違反で逮捕されていて、誰もいらっしゃらなくなったんです。激しい選挙だったので新しい候補者はその選挙に関わっていない者から出したいと勧誘に来られました。
丸山 ここの段階では政治家になろうという気持ちは?
日沖 もう全くなかったですね。政治に無関心で投票にも行ってなかった。この選挙で自分に投票したのが初めてです。
丸山 それが36歳で大安町長に就任することになった。
日沖 はい。私、人のおだてに弱いんで。冷静に考えて、落ちても失うものは何もなかった。一農機具屋のせがれでしょう。落選しても名誉が傷つくとか何もない。勧誘にみえた方も「普通にしていたらいいから。悪いことさえしなければいいから」と、そんな感じでしたね。ですから、「いいんじゃない。5日ぐらいだったら走ろうか」って出馬を決めました。でも初めはさっぱりわかっていなくて、出陣式の時の挨拶は「頑張ります!」だけだったんです。マスコミも支援者も「え、もっと何か言わないの?」という感じでした。
丸山 選挙は8月でしたね。
日沖 8月6日投開票でした。勿体ぶったことを言っても、素人だというのは皆さんご存じでしたので、皆さんの願いを反映させます、ご意見をお聞きしますと訴えて。暑い日でしたが、4分の3ぐらいの票をいただいて。就任後も町民の方々が私のようなど素人をゆっくりゆっくりと見守ってくださいました。ありがたいことですね。私はラッキーでした。
丸山 そうだったんですか。その後も圧倒的な人気で3期務められましたね。大安町長時代で思い出深いことは?
日沖 デンソーの2期工事の誘致ですね。デンソーのそれで最高裁まで行きましたけれども。(工場用地取得に絡み、地元自治会に替え地として渡した土地に対して町が自然保護を名目に年1000万円もの借地料を自治会に支払うのは違法として、市町村合併後の06年、市民5人が市長に4000万円を市へ返還するよう求めた訴訟。11年に最高裁で市長の主張が認められた。)
丸山 うかがってはいましたが、大変でしたね。
日沖 95年に町長に就任して、デンソーさんから拡張計画のお話が来たのは97年でした。就任してまだ2年目、38歳の時です。そこでそれだけの用地を確保するかしないか。町として、用地を買収してデンソーさんに売却するという、その事業に踏み込むか踏み込まないかの判断を迫られたわけですよ。地元自治会との交渉も難航して。
丸山 相当なご苦労をなさったのでしょう。
日沖 そうですね。でも最終的には無事に誘致もできて、いい結果になったかなと思います。若くしてこういう経験ができた。就任したばかりのころは、問題が起きたら誰か助役さんとか総務課長さんとかが片付けてくれて、私は神輿に乗っていたらいいのかなと考えていたりもしたんですよ。そうしたら、実際は自分で乗り込んで行なきゃいけないことが多くて。そこで自己流でやったらいいんだと学習をしました。それまでは、脈々と引き継がれた、善きか悪しきかわかりませんけれども、伝統を引き継いでいくのが町長の仕事だと思っていたんですよ。けれども、そうじゃないんですね。全権委任を受けたんだと。お前の発想でやればいいんだと。そこではっとしました。そしたらこういう性格なので、よっしゃーって。
丸山 自分でやって行こうと?
日沖 はい。工場用地の取得も自ら自治会長と交渉をしました。
丸山 次に市町村合併があるわけですね。結局4町で合併ということになりましたけれども、その時の思い出は何かありますか?
日沖 当初、東員町が入るか、入らないかで揉めました。4町の合併で行こうとなった後も、北勢町が入らないと言ってきたため、説得しました。北勢町の議員さんのところにも頼みに行きましたね。
丸山 現在、いなべ市長を3期務められて、行政の質の改善を掲げた「いなべブランド」というのを打ち出されていますが、どんな形で進めていこうと思っていますか?
日沖 フットボールと同じなんですが、何かで日本一になろうという。スローガンが大きいと職員のモチベーションが上がるんです。ブランドというと特産品や観光と思われがちですが、いなべは行政サービスの質を上げましょう、それをブランドと言いましょうと。客観的に全国1位になれば、職員もうれしいし、それを聞いた市民の皆さんの満足度も上がる。するとまた職員のモチベーションも上がって一段高みを目指そうと。
丸山 だから、質の向上と満足度の向上という流れなんですね。
日沖 合併の関係で総務省の方との会談があったんですが、首長の中には「合併で良いことなんて何もなかった」と言われる方が結構みえるんです。けれども、私は合併してよかったと思っています。職員のレベルが確実に上がりました。それは言い切れますね。丸山先生も客観的に見られて、どう思われますか?
丸山 ええ、いきいきしているなという感じがします。以前、県を通してこのエリアの職員研修をしていましたが、町だった頃より、今は自信を持って仕事をされていますよね。市になったんだという意識は相当ありますよね。いいことだなと感じています。
日沖 以前は比較対象が合併した他の3町だったのが、今は四日市さんなど大きな市と比較しますので。
丸山 比較対象が市同士に変わりますものね。住んでいる方々にとっても違うのだと思います。町には町の良さもありますけれども。私は他の合併した自治体と比べていなべ市は成功しているなと思います。旧4町それぞれ違いや個性があったと思うんですが、かなり同質的ですよね。
日沖 そうですね。もともとの下地もありましたので。地形的にも員弁川に沿って連携してきましたし。
丸山 自治体に限らず組織が合併すると、どうしても確執が残る場合があるようですが、いなべ市では耳にしません。ある意味、皆一体となっているように感じられます。
日沖 今のところは順調かなと。財政的にも。
丸山 行政畑出身の方ですと、既存のルールに従ってしまいがちですけれども、市長はビジネスの感性で、何が得かをきちんと考えていらっしゃる。すばらしいですね。
日沖 規制緩和っていろいろ言われていますが、実は勝手にしている部分が結構あるんです。可能な範囲で勝手にやればいいのかなと。規制されているからできないというのではなく、逆にどうしたら行政サービスを向上できるか。私どもがそれを白と証明する必要はなく、違法だと言う人が裁判などで黒を証明してくださいと、証明されれば改善しますと。そんなスタンスです。例えば、国民健康保険の健診で、健診を受けない、健康に関心の無い人の保険料を高くしようとしたら、国はそれは法に反するのでできないというわけです。じゃあ、逆に健診を受ける人を優遇するのは違法じゃないよねと。だから事実上の差がつくように入浴券とかいろいろサービスをするようにしたんです。民間の保険なんかは喫煙者に対して保険料を上げているんですよ。そこで国と揉めるより、できることを勝手にやろうと。やりようは幾らでもあるのかなと。
丸山 いなべ市は東海環状自動車道と新庁舎建設という大きな事業が控えていますが、これからどういう方向へ持って行きたいとお考えですか。
日沖 東海環状で、いなべ市は大きく変わりますよ。企業の目も変わりますし、観光でも名古屋から近くなる。名古屋から多治見へ行くのと同じくらいの距離になります。にも関わらず、これまで全く観光のPRをしていないので、手付かずのマーケットなんです。真面目にPRをして多治見の半分の観光客でも来ていただければ、それによって、また活性化できる。いなべ市民の中にはまだ外来者に対して拒否反応がある人も多い。よそ者に対する雰囲気というか。まちは多様性のあるところが発展する。だから、外来者に対して寛容な都市にしないと将来がないですよね。
丸山 今、定住促進などもいろんなところでやっていますが、外から人が入ってくるためには、その土地に受け入れる寛容さがないとなかなか行きづらい。今回の東海環状自動車道の開通はいいチャンスですね。平成23年に、石榑トンネルが開通し、国道421号線の交通量も大分増えましたね。それらをどう活用していくかが重要ですね。
日沖 だから、新庁舎は単なる職員のオフィスではなく、市内外へ発信する、できたら新しい産業がそこに興るような仕組みにしたいと思っています。一昨年から石黒靖敏さんという覚王山でいろんなまちづくりをされているコンサルタントに来ていただいています。新庁舎の建つ阿下喜で「熱く語る会」というミーティングも月に1度開いています。地元がその気にならないとだめなので。
丸山 それは大事ですね。
日沖 それと一昨年は、「マルシェ・クラフト市」というのを開催して、2万人くらい来ていただいた。阿下喜はいなべで唯一、市街化と商店街が残っているまちなんですよ。今手を打てば、もう一度魅力あるまちとして蘇る力のあるところ。そこにかけています。新庁舎も持ってきて一体的に。普通、庁舎建設はハード事業ですよね。でも、それだけではなく、ソフト面でも、石黒さんに入っていただいて、地域の皆さんにも参加していただいて、まちおこしをするという企画を2年前からやっているんです。議会でもその基本構想の説明をしたばかりです。大安町時代から、観光が手付かずのままだということが気になっていましたが、まず財政の安定化を図らなくてはいけないということで、企業を誘致しました。それは成功しました。今度は、地元に根差した産業、地元の特色を活かしたものをつくっていきたい。皆さん、いなべの特徴は豊かな自然だとおっしゃいます。登山ブームですし、それを最大限活用する。来年5月(2015年5月)には国際自転車ロードレースの「ツアー・オブ・ジャパン」 も開催されますし、今度は外国の選手も来ますので、またいい刺激になると思います。そこでビジネスをしようという方が生まれてくるかなと。そういう外へどんどん発信することをこれからのいなべ市の目標にしています。
丸山 そうすると楽しみがいっぱいありますね。やるべき仕事もたくさんですが。
日沖 いなべ市は、今までは財政健全化のために企業誘致に重点を置いてきましたが、これから結構面白くなりますよ。
丸山 お話をうかがって、学生時代にアメリカンフットボールで甲子園ボウルに出たという成功体験が、今でも市長の中で生きているのだということがよくわかりました。それと大安町時代のちょっと世間を賑わせた裁判もご自分の財産とされているということも。ここへ来て、東海環状の話もそうですし、上手に合併特例債を使いながら新庁舎を建設するのもいいタイミングで来ているなという印象を受けます。
日沖 特例債は延長になりましたしね。
丸山 そういう意味ではタイミングを見極める目とチャンスを掴む強い握力もお持ちなんですね。最後に座右の銘がありましたら。
日沖 「限界への挑戦」ですね。いつも言っています。
丸山 今日はお話をうかがい、大変楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。
丸山 康人氏プロフィール
平成6年から四日市大学経済学部で助教授として「政治学」「地方行政論」等を担当。平成11年に同学部で教授、平成13年から総合政策学部の設置と同時に教授と四日市大学地域政策研究所副所長を兼務した。
すでに平成12年から施行されていた「地方分権一括法」により世の中では「平成の大合併」の議論が盛んとなっており、平成13年、14年には“三重県の分権型社会を推進する懇話会委員”や“名古屋大都市圏のリノベーションプログラム策定調査会委員(国土交通省)”を委嘱された。近隣の自治体から近畿地方の各自治体まで、多くの市町村合併問題に関わることとなる。また、地域政策の専門家の立場から四日市市・桑名市・いなべ市・菰野町・朝日町等の審議会や委員会の長を務める。平成17年には暁学園新大学設置準備室長となり、平成19年に四日市看護医療大学が開学した際に副学長、平成25年より学長に就任し、現在に至る。