誕生から幼少期
生まれは大分県の別府市です。1947年生まれですから太平洋戦争が終わって2年目の時です。
父は南洋諸島のトラック島で無線技師をしていたそうです。トラック島は玉砕しているところなんですけど、父が生き残れたのは、人より無線機の方が重要だったからでしょうね。無線機は一番強固な防空壕に設置されていたので、父もそこに入ることができたということです。その後の話は父も話したがらないし、私も少女の頃ですから突っ込んで聞くこともできなくて…。でも今から思うと、きちっと聞いておけばよかったなと思います。父がどんな思いで帰ってきたのかは、私には謎のままです。
戦争が始まる直前、技官・官吏の女房子供は船で本土に帰ることになって、母は実家のある大分に戻ったんです。そこで兄を生んで、生死のわからない父をとりあえず待っていたら、ある日突然、父が帰ってきた。それから家族で別府に移って、父は別府で弱電関係の仕事をはじめました。私が生まれたのはその頃です。
父は「こんなとこにいてもうだつが上がらないから東京に出たい」と言って、私が1歳の時に家族で東京の大森に引っ越しました。父は新橋に事務所を構えて仕事をはじめたんですけど、景気が良かったので事業は順調だったようです。でも元々すごくお酒が好きな人で、毎晩飲み明かしてたらしいです。母に「何でそんなに飲ませたの?」って聞いたら「もう死んだと思ってた人がすごい思いをして帰ってきたから、好きなことぐらいさせてやろうと思った」と。
その後、父は胸を患い、東京での仕事をやめることに。父は千葉県の勝浦の出身なので、単身転地療養することになりました。母と兄と私はそのまま大森にいて、土曜日に兄の学校が終わると電車に乗って父のとこに通った記憶があります。その後、私が5歳の時に家族で千葉に引っ越しました。私は東京弁だったんで言葉とか全然違うんですけど、いじめにあったとかは全くなかったな。逆にガキ大将を馬乗りになってやっつけたりして、すごい元気のいい女の子でした。「あなたが悪いんでしょ!」みたいなことを東京弁で言うもんだから、かなり浮き上がっていたと思います(笑)。
哲学を志し、法政大学に進学
高校は茂原の長生高校に行きました。高校2年の時に、倫理社会の教科でノックアウトされちゃいました。「こんなおもしろいものはない!」って倫社に一目惚れって感じでした。だから大学は倫社が学べるところということで、哲学科に行きたいと思うようになりました。あと詩作にも没頭しました。蛍雪時代って雑誌に詩を書いて投稿して、それがよく掲載されました。
高3になるころには法政大学の文学部哲学科に決めていました。谷川徹三、桝田啓三郎、池島重信という先生がいて、近代哲学をやるなら法政だって。無事合格し晴れて法政大学に進学することになったんですけど、母は合格発表のときフテ寝して起きてこないぐらい怒り心頭に達していました。国立に入って欲しかったみたいです。「これからは女も世の中に出て働いて自分の生き方を全うできる世の中になるはずだから、頑張れ」これが母の考えだったんです。でも母の期待を裏切って就職が出来るか出来ないかわからないようなところに進学したので、それがずっと後まで続く私と母との確執にはなるんですが…。それでもまあ、勘当はされなかったです。法政大学は飯田橋なんですけど、通うのはちょっと無理なので、一人暮らしをすることもできました。
学生時代は学生運動のど真ん中でした。法政も私が入学した年の終わりくらいにバリケードが張られて、授業が行われなくなりました。糸井重里が文学部の自治会のボスでした。話したことはなかったんですけど、有名になってから「文学部のあの人だ!」ってすぐわかりました。
私は詩人になれるわけではないのはわかってるし、哲学者にもなれない。何になりたいか?って悩んでたとき、本を読むのが好きだったので「本を作る人になりたい」と思うようになりました。書く人になれなくても作る人になりたい、編集者になりたいと思うようになりました。私が高校のときに通っていた塾の先生が元々東京の人で、編集関係の仕事をされていたんです。それで「編集者になりたい」って言ったら、編集関係のアルバイトを紹介してくれたんです。朝日ジャーナルや三省堂の国語の教科書の編集とか、三一書房とか。大学院も含めて都合6年間、雑誌から新聞までいろいろなところで掛け持ちでアルバイトさせてもらいました。楽しかったですね。
卒論は「日本の戦後の教育思想史」を書きました。論文を見てくれた先生が「今後どうするんだね?」と聞くので「もうちょっと勉強がしたいです」って答えたら、東洋大の社会学の大学院を勧めてくれたんです。で、東洋大の大学院に通いはじめました。その時、今の夫と恋愛をしまして、彼と結婚することになったんです。そこでまた母に罵倒されました。「あんたは親と約束したことを何一つ守らない。高校の先生になるからって言って大学院に行ったのに、結婚するってどういうこと?」。母は勘当するって言ったんですけど、父が間に入ってくれて、無事結婚することができました。私が23歳、彼が22歳のときでした。
結婚して四日市に住みはじめる
結婚して夫の実家の四日市に住みはじめたんですけど、実家は富田で縫製業の会社を営んでいました。家の隣が工場で、義理の母がそこで朝から晩までミシンを踏み、おなごしさんを使って裁断したり縫製したりってことをやってました。「あなたもやりなさい」とは言われなかったんですけど、みなさんが働いてるのに私が家事しかしないのはバツが悪いですよね。それで私も仕事を手伝うことにしたんです。最初にやったのが寝間着の袋入れでした。その当時はガーゼの合わせのお寝間着が主力の商品でした。日本人の生活も良くなっていった頃で、商品はよく売れました。私は袋詰めなんてやったことはなかったんですけど、早く正確に作業することがけっこう楽しかったですね。
児童文学の仲間と。中央が今江祥智先生。イラストレーターの宇野さんもご一緒です。メリーゴーランドの増田さんも。
26歳のとき息子が生まれまして、息子が幼稚園の時、松本にメリーゴーランドって本屋さんありますね。そこに子どもの本を探しに行ったら、晶文社の『文学の贈り物』シリーズが並んでたんです。私『文学の贈り物』は東京にいる時から買ってたんです。白楊に行ってもなかったのに…。「こんな本屋がこんな田舎にあったんだ!」ってびっくりして、それから子供を連れて通い出したんです。そしたら店員さんが「変なお母さんがいる。みんな子供の本を買いに来るのに、子供をほったらかして自分の好きな本ばかり買ってる」って店主の増田喜昭さんに言いまして(笑)、それで増田さんたちと出会ったんです。増田さんの仲間に、童話作家の今江祥智さんがいました。その方が「児童文学の評論集をメリーゴーランドで出さないか?」という話を持ってきたんです。私も「本の編集をやってました」って話をしてたもんだから、桂子さん一緒にやろう!ってことになって、今江さんと増田さんと、増田さんの本連れ仲間3人と私とで、編集同人を組んで評論集を4冊作りました。
ホームファニシングの企画の仕事をはじめる
最初の企画室(東富田)にて。
子供に手がかからなくなると、仕事に没頭するようになりました。ちょうどその頃、日本人のライフスタイルがどんどん洋風にかわっていって、今までのように寝間着だけではいけない、なにか新しいことを企画しないといけないと思うようになりました。それで原宿とかでアパレル関係の仕事をしている人に新商品の企画をお願いするんですけど、ちょっと違うんですよね。うちの会社の分野はホームファニシングっていって、家の中の布製品なんです。でもアパレルの人たちはホームファニシングに対して関心が低く、実際にパジャマがどう着られるとか、ベッド周りはどうなってるとかわからずに企画を立てるんです。そんなとき「桂子さん商品企画やってみない?」って問屋さんからお名指しで言われて、じゃあやってみようかと。ホームファニシングの専門の企画屋って、おそらく私が日本で初めてだと思います。40歳のときに企画部門を『数馬企画』という別会社にしまして、いろんな会社と契約して金土日は東京に行って仕事してました。
数馬は旧姓です。渡辺が嫁ぎ先だから本名は渡辺なんですけど、夫の兄弟3人が同じ会社にいて、それぞれ嫁も一緒に働いてたんで、渡辺さんが会社に6人いたんです。これって不便ですよね(笑)。でも「社長の奥さんとか専務の奥さんとか工場長の奥さんとか呼ばれるの心外だよね、きちっと名前で呼んでもらいたいよね」って話して、私は旧姓を名乗るようになりました。
商品企画って仕事はやったこともないし、誰かに教えてもらったこともないですから、最初は試行錯誤ばかりでした。兄が電通に勤めていたので、いろいろ相談にのってもらいました。「大事なのは歴史と現状を知ることだ」って言われて、マーケットリサーチをかなりまじめにやりました。新しく店舗ができたって聞くと、都内はもちろん秋田、盛岡まで出向いてました。トレンドを知るために年に2回ニューヨークに行って、ホームファニシングとアパレルを見てまわりました。そこで得た知識をストックしておいて、お客様に分かるように説明するんです。
企画の仲間達と渋谷にて。
先進国で作っている流行色協会っていうのがあって、そこが2年後の流行色を決めるんです。太陽の強さによって色って見え方が違うんですね。「2年後の太陽の状態だとこの色が好ましく映る」というデータとか、世界の情勢‥どこかで紛争が起こっていたりとか、大きな自然災害があったとかいうこともベースにしてデーター化したものを各国がもちより会議を重ねて世界の流行色が決まります。その発信を受け、各国がそれぞれ自国の流行色に落とし込むんです。それも私たちは勉強するわけです。世界の流行色はこうだった、日本ではどうだろう?お洋服ではどうだろう?夏服はどうだろう?冬服はどうだろう?お家の中だったらどうだろう?って。形も、ゆったりした物が流行るとか細身が流行るとか周期があって、そういうことを考えながら新商品を提案していくんです。ホームファニシングでそういうことをやってる人がいなかったので、独壇場みたいにやれましたね。
仕事を息子に引き継ぎ、新しいビジネスをはじめる
そんな仕事を60歳までやっていました。次男が私の仕事を継ぐというので、まかせることにしました。サッカーばっかりしてた子で、高校卒業時に大学に行かずサッカーをするためにドイツに行って、戻ってきて甲府のヴァンフォーレに入りました。辞めて帰ってきてうちでアルバイトをしてたんです。2年ほど私がついて仕事を一緒にしました。次男が企画営業をするようになってから、私は地元で働くようになりました。
そんな時に今の経産省、昔の通産省の外郭団体が主催する『ジャパンショップ』という展示会に出店しませんか?って誘われたんです。出店するのはいいけど自分のオリジナルのものがない。それで、なにかいい企画はないかなと考えて「犬と暮らす人のためのライフスタイルショップ」という所に行き着いたんです。犬と遊ぶと毛だらけにりますよね。犬と遊び終わったらぱっと脱げて、犬の毛が払いやすい素材でシワにもならないお洋服とか、犬の毛がついても払いやすい抗菌防臭の寝具とか。
その企画がコンテストで2等賞になりまして、それで百貨店からも引きがあったんですけど全部お断りして、インターネットで直販をするとことにしました。商品はすべてうちで企画してデザインして、裁断をして縫製しています。だから完全にものづくりの会社です。今は「ものづくりをしてきてよかったな」ってホントに思います。ものを作らなくなったじゃないですか、日本が。何もかも中国やベトナム等で作るようになってしまって、海外に技術を渡しちゃって、日本には職人になる人もいなくなっちゃって。だから今、うちの会社はプリントや染めから刺繍まで、ほとんど社内でやってます。人の喜んでくれるものを作るってやっぱり楽しいですよ。その「ものづくり」のところで、ばんこの里会館の仕事と重なる部分があるんですよね。萬古焼ってものづくりそのものじゃないですか。扱ってるものは違いますけど、根本的な部分は同じなんです。
ばんこの里会館・館長に就任
ばんこの里会館の建設は市が四日市市制100周年事業として提唱、萬古陶磁器卸商業協同組合と萬古陶磁器工業協同組合に連合会を作らせて運営を任せたんです。両組合の理事長が2年交代で連合会の理事長・副理事長となり運営。でも2年では何も出来ないですから、集客を促すようなことも出来ないし運営していくこと自体が大変になっていったそうです。結構大きな建物なんで電気代とか水道代とかも大変ですし、従業員やパートさんのギャラも発生するし。それで、とてもやっていけないということで、商業組合・工業組合両方が「ばんこの里会館をやめよう」と、市に運営して欲しいと。「市営のものを民間に下げることはあっても、民間のものを市が買い取ることは前例がない」と断られ、話合いの結果として『ばんこの里会館在り方検討会』が開催されたんです。今、四日市大学学長になってる岩崎さんが議長になって関係者が集まって。そこで決まったことのひとつが「館長職を設ける」ということだったんです。それまで館長がいなかったんです。館長を選ぶ際の条件として、利害関係が発生しないように萬古焼に関係のない職種の人、そして企画ができる人、「商品を販売するビジネスとはどういうことか?」がわかる人。で、そういう条件で探し出したんですけど、なかなかいないんですね。たまたま県のデザイン研究会という集まりが昔ありまして、その時ご一緒したメンバーが市役所の人に私を紹介してくれたんです。
館長のお話を頂いたのはありがたいんですけど、「犬と暮らす人のためのライフスタイルショップ」も結構仕事が忙しくて「館長なんて責任のあること出来ない」って言ったんです。「どのくらいだったら来れますか」って聞かれたので「土曜日が休みだから土曜日は行けるわ、でも日曜日は出たくない。金曜の午後と土曜の午後なら行けるわ」って言ったら「それでいいから来て下さい」って。そんなこんなで、ばんこの里会館の館長に就任することになりました。
ばんこの里会館の運営会議が月一回、夜に行われていて、初めて出席した時、10数人参加していたんです。みなさん真面目だなあと思いました。一杯飲んで横になりたい時間にわざわざ出てくるんですからね。こんな真面目な人がいるんだから何でも出来るよ、と思いました。私の個人的な感想なんですが、今まで「こんなことやりたい」と思っても、言ったら自分が、もしくは自分が所属する組合の人たちが動かなければいけなくなる。だから誰も手を上げない、思っていても言えないって状況があると感じました。でも私は気がねなしに「こうしましょう、ああしましょう」って言うじゃないですか。そうすると「館長が言ったから」って、みんなが動きはじめるんです。
それから、体験講座を強化したり、女子会を作ってお茶入れ講座をやったり、だんだん人の動きが活発になったんです。館長になって2年後に沼波弄山の生誕300年祭をしようという話が登場。『BANKO300th』と名付け、内田鋼一さんを総合プロデューサーとして実行委員会が発足。生誕300年にあたる2018年には1年間さまざまな事業を展開しました。萬古焼が誕生したのは1738年。本当のBANKO300thは2038年。そこまで『BANKO300th』としてさまざまな事業をし、情報発信を続けていきます。ばんこの里会館はこれからもっと良くなっていくと思います。工も商も関係なく、40代とかの若手が活発にいろんなことをやってくれるんですよ。パンフレットや出版物も作りました。小さいですが展示室も作り、ライブラリーも。
あと、館長補佐という役職で仲間が増えました。『やきものたまご創生塾』の卒業生で、ボストン大学で学んだ英語が堪能な女性です。ホームページの更新も彼女にやってもらってますし、ホームページの英文のページも彼女が作ったんですよ。
次の目標は、萬古焼と沼波弄山の絵本を作ることです。20年前にもそういう話が出てたらしいですけど、実現してなくて。絵本は英文併記の予定です。今、74なんですけど、70代でやりたいことがいろいろ出てくるなんて、50代の頃には考えられなかったと思います。そういうことを一通りやったら、私も引退かなぁと思っています。
晩年に幸せになる?
私たちの世代は、70年安保の時に挫折をしてるんです。世界中の若者が「こういう世の中にしたい」って声を上げました。でも国家とか政府って、そんなことで変わるほど脆いものではなかった。それを知ってしまったんですね。私が結婚して三重に来たのも、本当は「結婚に逃げた」のかもしれない。逃げたというのは夫にも子供にも申し訳ないし、そんなこと思ったことは一度もなかったんですけど、今考えるとそういう部分もあったのかもしれません。
大学の先生や編集者ってインテリですよね。そういう人たちと、寝間着の縫製や袋詰めやってるおばちゃんたちも、同じ人間だってわかるじゃないですか。これが普通の生活なんだなあ、地味な仕事でも一生懸命やったり、一生懸命子供を育てたりするのも大事なことなんだなってすなおに思えたんですね。
でもたまに寂しくなる時があるじゃないですか。三重には知ってる人もいないし。そういう時、鈴鹿の山に救われました。工場の屋上が洗濯物干し場だったんですけど、そこから鈴鹿山脈が見えるんです。千葉って一番高い山でも3百メートルだし、東京も都心は山が見えるところってないから、私にとって初めての山の景色だったんです。洗濯を干しながら西の山を見ていると、拝みたくなるんです。人って自然があって当たり前。そんな自然に対する畏敬の念を、鈴鹿の山々から感じたんでしょうね。
20歳の時、新宿で占い師に「あなたは晩年に幸せになります」って言われたんです。「幸せになる」って抽象的な言葉ですよね。「お金持ちになる」「財産を失う」みたいに具体的じゃないから。でも逆に、自分次第でなんとでも解釈できますよね。だから私は、六十を過ぎてここのお仕事を頂いて、いろんな人に出会えて、「数馬さんがきてここ変わったな」って言われたりすると「あの占い当たってた!」って思うようにしてるんです(笑)。