PERSON~三重の人物紹介

自治体議会政策学会会長 / 竹下譲

竹下譲

2015年は「地方創生元年」と言われる。“東京一極集中”を離れ、地方が抱える問題には地方が主体となって関わり、解決策を見つけ、実行していく姿勢が求められる。今、声高に叫ばれるはるか以前から「地方創生」を唱え続けてきた竹下譲氏に、今後日本の地方のあり方について聞いた。

子供時代

 和歌山県海南市。太平洋戦争の最中、本土決戦に備え常駐していた軍隊との思い出が最初の記憶。いつものように軍用犬を見に行くと、全部死んでいた。そして、仲良しの兵隊たちは鉄砲や刀を校庭、隅に積み上げ、穴を掘ってそれを埋めた後、姿を消してしまった…。私にとっての終戦だった。
 昭和21年、小学校入学。戦後の最初の1年生である。このときの先生たちは多くが臨時の先生だったため、ほとんど何も教えてくれなかった。教えてくれても間違いが多かった。仕方がなく、何か疑問があると、子供たちでいろいろ調べて答えを出すということをしたが、これがその後の私の生き方を決定づけた。「先生」のいうことを鵜呑みにせず、自分自身で考えるようになったのである。
 小学生時代後半。母親が戦争疲れか床に就いていることが多かった。このため兄と2人でよくご飯づくりをした。この頃のご飯づくりはまず食材探しから始めなければならなかった。配給された乏しい米や麦を次の配給があるまで食べつなげるようにし、おかずとして食べられそうな草を探し、川で蟹や魚をつかまえて調理するというご飯づくりであった。いま思うと大変なことであったが、当時は、生活実感にあふれていて、楽しく貴重な時間であった。
 中学生時代は勉強はしなかったが、英語だけは近所にアメリカ帰りの人がいたためその人に教わった。また、3年生の時、数学の先生が家に遊びに来いというので行ってみると、いまでいう塾を開いていた。そこで、他の中学校の生徒たちと一緒に問題を解き、分からないところはみんなで考え、さらに分からないところは本で調べるという勉強をした。この勉強は私に合っていたようで、おかげで英語と数学に自信が持てるようになった。

大学時代

 仙台にある大学の法学部に入り、政治学系統の外交史を専攻した。しかし目標があったわけではなく、卒業後、証券会社に就職した。そして、いわゆる猛烈社員として夜遅くまで働いていたある日、ゼミナールで教わった外交史の教授から大学に戻ってこないか?という誘いがあった。この誘いで研究者になろうという気持ちが強くなり、大学院に入学。柳瀬良寛先生のもとで、ドイツ語の文献の解読に明け暮れた。
 2年ほど経ったある日、柳瀬先生から呼び出しを受けた。「君に関心を持っている老先生がいる」というのである。会いに行くと亀掛川浩先生で、主催する「東京市政調査会」への誘いであった。こうして「東京市政調査会」の研究員になることが決まり、すぐさま上京した。

東京市政調査会時代

 「東京市政調査会」は明治・大正時代に内務大臣や東京市長などを務めた後藤新平が大正11年(1922年)につくった研究所だった。ここに13年ほど勤務し、頻繁に全国の県や市、商工会議所やダム建設現場、港湾事務所などへ数日間の泊まり込みで出かけ、話を聞き、現場を見て回った。まさにアメリカ流の研究手法「実態調査」だった。
 他にこの研究所では、有名な学者をメンバーとする研究会も定期的に開かれていた。このため、これらの先生からいろいろなことを教えられた。
 この研究所には、外国から研究者が来ることも多く、これらの人たちとも対等につきあえるようになった。国際会議にも出席させてもらった。昭和47、48年(1972、3年)頃の話であるが、スイスのローザンヌで開かれたこの会議で多くの知り合いを得た。
 30代後半、研究所と東京都立大学の兼務となり、はじめて学生に教えることに。40歳で研究所から離れ、拓殖大学と明治大学で教えることになった。

拓殖大学時代「土光臨調」での活動

 拓殖大学の教員となった昭和56年(1981年)「土光臨調」が設立された。日本の国の赤字財政再建のために設置された審議会で、正式名称は「臨時行政調査会」。経団連名誉会長の土光敏夫氏を会長としたため一般に「土光臨調」と呼ばれていた。
 審議会は通常、著名な経営者や学者、マスコミ関係者、組合の委員長などを委員として構成されるが、これらの委員は自ら問題点を追求し解決策を練るわけではない。各省庁の官僚で「事務局」をつくり、そこから出される改革案について審議するのである。
 しかし、これに経団連や労働組合が反発。これでは官僚に仕切られてしまい本当の改革はできないと判断したのである。そこで経団連や組合で官僚とは別の事務局をつくり改革案を練ることになった。当時、経団連の秘書室長であった並河信乃さん、本田技研会長の本田宗一郎さん、ソニーの名誉会長の井深大さん、東洋大学学長の磯村英一さんらが事務局設置の責任者になった。
 この事務局は「行革フォーラム」と名づけられた。私もこの「行革フォーラム」に巻き込まれ、改革案を練るための手伝いをするようになった。たとえば、道路整備や国鉄の実態を調べ、その問題点を明らかにし、その解決策を検討するという作業に従事したわけであるが、研究所時代に身につけてきた手法が大いに役立った。
 この「行革フォーラム」では多くの人の影響を受けたが、とりわけ本田宗一郎さんに鍛えられた。たとえば問題点を報告する際には、研究者のくせで分厚い報告書をつくってしまうのであるが、本田さんは「小学校卒の俺にこんな分厚い報告書、分かるはずがない」と読もうともしない。そこで、数枚にまとめようとするが、これが非常に難しい。ようやく2~3枚にまとめて持っていくと、今度は「こんな漢字いっぱいの文章は読めない。絵にしてくれ」という。絵にするには完全に事態を把握していなければならない。さらに時間をかけて考え図で表現して持っていくと、やっと受け取ってくれる。どうやら本田さんは最初の報告の段階で十分に理解していたにもかかわらず、私の理解を深めるために、つまり私を育てるために「俺は小卒だ」と威張っていたのである。以後、私は何かを調べ説明するときには、図や絵で表現できるかどうか念頭に置くようにしている。
 「土光臨調」の民間事務局である行革フォーラムには政治家も出入りしていた。橋本龍太郎さん(その後、首相)をはじめ何人かの自民党議員と知り合うことが出来たし、当時熊本県知事であった細川護煕さんとも知り合った。島根県知事を経て獨協大学長になっていた恒松制治さんとは委員会をつくって様々な問題を検討し、いろいろ提言も行った。農業問題、大型店舗の問題、流通問題、国鉄問題などさまざまな問題を検討したおかげでいろいろな現象を理解し、幅広く物事を考えられるようになった。流通問題ではクロネコヤマトの創設者・小倉会長が議論に加わるなど、本物の議論だった。「郵便局」についても、日本の借金との絡みで問題視した。当時、国民が郵便局に預けた郵便貯金はすべて大蔵省(現在の財務省)の管理下にあった。そのため、政府はお金が不足すると大蔵省が郵便貯金でそれを賄っていた。大蔵省は苦労なく借金することができ、それが国の借金を増やす要因となっていたのである。そこで郵便局の民営化を提言。そうすれば国は簡単に借金ができなくなり、健全な運営に向かうだろうと考えたのであるが、しかし自民党の強い抵抗に遭い、郵政民営化は実現しなかった。郵政民営化は、小泉政権時代に実現したが、これは郵便貯金のほとんどが国債に変わってしまった後だった。
 こうした検討の中で私が最も熱意を持ったのは、地方自治の実現であった。国の赤字体質を改めるためには地方が自立しなければならない。そのためには地方の運営は地方に任せることが必要であり、地方がそれぞれの意思のもとに、独自の運営をするシステムをつくらなければならないと考えたのである。そして「行革フォーラム」の事務局長であった並河信乃さんの表現にしたがい、地方とくに市町村に「主権」があると主張した。しかしこれは猛烈な反発をくらった。「主権」というのは国家のものであり、市町村に分割できるものではないというのであった。
 こうした議論の課程で私は、次第に50年後、100年後の日本人に私たちがどのように見られるのかという点が気になるようになった。そして、日本経済がどうかなどということは些末なことであり、それよりも、日本人の生活基盤がしっかりとしているかどうかを真剣に考えなければならず、そのためには地方の意思を決定するシステムを健全にする必要があると考えるようになった。要するに、当面は地方議会の役割が大きいと考え、その改革に熱を入れるようになったのである。
 こうしたことを、少し冷静に考えてみようと思い、しばらく日本を離れロンドン大学に行った。

ロンドン時代、自治体国際化協会ロンドン事務所の設置

 ロンドン大学時代は地方の政治行政の実態調査をしようとしたが、これがなかなか難しかった。日本のシステムと全く異なるので、互いに話がかみ合わない。それで困っているときに、私の研究室に横田光雄さんという自治省(総務省)の人がやって来た。ロンドンに日本の自治体の事務所をつくる、しかも、それを調査機関にするから協力してくれというのである。これは私にとって「渡りに舟」であった。横田所長はこの事務所をロンドンの官庁街のど真ん中に構え、大学の準教授クラスや弁護士など優秀な人材を現地スタッフとして集めた。1989年の夏だったと記憶するが、横田所長を筆頭に日本人スタッフと現地スタッフ、私も加わって総勢10人ほどでハンプシャー県やサザンプトン市など数日にわたって調査した。これは日本人初の本格的なイギリスの自治体調査であったはずである。以後、各地の調査にも行ったが、どの自治体も協力的で順調に物事が進んだ。
 そのうち、横田さんは「イギリスの実態を知るためにはイギリスの学者から教えを受ける必要がある」と言い出し、事務所にロンドン大学の教授や準教授を招聘するようになった。そして、彼らと研究会を開くだけでなく、調査にも行くようになった。私がそのチームの代表になることが多く、そのためであろう、私はいつの間にかロンドン大学の客員教授になっていた(それまでは、客員研究員)。
 帰国後は再び土光臨調の並河さんたちと行動を共にするようになり、1990年代半ばに拓大から神奈川大学に移った。

神奈川大学時代、自治体議会政策学会の設立

 神奈川大学ではいよいよ「地方議会を何とかしよう」と自治行政の仕事に取り組みはじめた。地方議員の研修機関を東京に設立するという話から始まった。恒松制治さん(獨協大学長・前島根県知事)、松下圭一さん(法政大教授)、中村陽一さん(中央大教授)、中邨章さん(明治大教授)、並河信乃さん(行革フォーラム事務局長)らで講師陣を構成。全国から地方議員に集まってもらい、本格的に勉強してもらおうと考えたのである。この研修会を「自治体議会政策学会」と命名。私が会長となり現在に至っている。当初は講師陣の方が多かった「学会」も、以後地道に研修会を重ね(年5回ほど)た結果、今では年間700~800人の地方議員が研修を受けてくれるようになった。講師陣もどんどん充実していった。

四日市大学時代「市民と議員の交流の場」づくり

 その後、総合政策学部という学部を設置するために四日市大学に来た。ここでも私の研究生活の上で新しいことをすることになった。四日市大学の仕組みを「市民とともに研究する機関」に変えてみたいと思ったのである。
 最初に考えたのは、教員全員を研究所の所員にすることであった。学部に所属するのではなく、全員を研究所の研究員とし、そこでの研究を第一の任務として義務づけ、そこから、各学部の講義に派遣するというシステムにしたかったのである。しかし、これは他の教員に受け入れてもらえなかった。
 次に試みたのは、研究所内に住民や議員、市や県の職員、議員、そして警察官や学校教員などが自由に訪れ、大学の教員も雑用係としてそこに参加し、みんなで議論する場をつくろうという試みであった。ここで、市民が抱えているさまざまな問題、たとえばストーカーや家庭内暴力、子どもの教育や高齢者問題、不登校や万引きの問題などをみんなで議論し、警察には何をやってもらうか?学校にはどうしてもらうか?市役所・県庁は何をするか?商店街はどうするか?市民は何をするか?等々をみんなで議論し、解決方法をみんなで考えることが出来ればと考えたのである。
 「市民と議員が議論する」と言葉でいうのは簡単である。しかし日本人はこういうことに慣れていない。そこで議員と市民の双方に議論に慣れてもらおうと思い、四日市大学で毎年夏に行った集中講義を「地方議会論」と名付け、公開講座にして誰でも参加できるようにした。これを四日市市内の各地で市民に宣伝し、四日市市議会や周辺議会にも参加を呼びかけた。その結果、かなりの数の議員と市民の参加があり、議員との間で白熱した議論が展開された。参加した他市の議員から「こういう議論の場をつくった」という報告を受けたこともあったが、残念ながら四日市には根付かなかったようである。
 また、これとは別に「火曜研究会」を発足させた。今でもここには一般の家庭の主婦、退職組の男性、塾の若い経営者、そして数人の四日市市議、川越町議、前四日市市長、ごく稀に前多治見市長などが参加し、時事問題をみんなで議論している。テーマは種々雑多で、TPPが議論されることもあれば、四日市市制が問題となり、学校教育が議論されるといった具合である。この「火曜研究会」が『コラボレーション』に近いものと考えている。

三重県・教育委員時代

 四日市大学時代の2003年、三重県の教育委員にならないかという話が舞い込んで来た。当時の知事であった北川正恭さんが私を指名したというのである。父が昔、和歌山県の教育長だったこともあって、教育委員には興味もあった。教育委員になったことは、私の研究に大いに役立った。「土光臨調」以来、この国を改善するためには地方からの改善が必要と言い続けてきた。そして何よりも重要なのは地方議会の改善であると主張してきた。教育委員になることで、内側からより深く観察できる場に身を置くことができた。また、他の教育委員と知り合い、高校の教員と知り合ったことも大きなメリットであった。高校の見学に行き、先生たちや高校生たちと話し合うといったようなことは、おそらく政治学や行政学の研究者ではあり得ない体験だと思っている。

50年後、100年後の日本を見据えて

 四日市大学を退職後、拓殖大学に地方政治センターをつくってもらい、ここで全国の地方議員と、さらには外国の地方議員と交流することになった(この地方政治センターは、昨年、私が75歳を迎えるということで廃止された)。
 「自治体議会政策学会」の会長としての活動も続けているが、それと同時に、四日市大学退職以後は暁学園の四日市研究機構の地域政策センターで研究活動を続けることになった。この四日市研究機構は、その後、四日市看護医療大学の管轄になったが、いま、この研究機構の地域政策センターで、看護大学の丸山康人学長とともに明治初期の文献を読みあさっている。日本の地方制度がどのようにできあがったかを探っているのであるが、久しぶりに文献研究に戻ったわけである。しかし、これがなかなか面白い。
 たとえば、いまの地方は『行政』ばかりで『政治』がない。地方は国の法令の範囲内で、あるいは法令にしたがってそれを実践しているだけである。地方分権などといっても、それは国がもっている権限(裁量権)の一部を地方に分かち与えているに過ぎない。これはまさに『行政』であるが、なぜそうなっているのか?ということが、明治初期の文献を読んでいると徐々に分かってきたのである。
 地方が国に全面的に依存しているといういまの状況では、ひとたび国に何か事変があれば地方も一緒に倒れてしまう。地方が自立していれば、仮に国が駄目になっても国民は生きていける。地方が自立するためには、住民自身に自分たちの身の程にあった生活をしようという自立の心が必要である。そして、そのことを住民に説得できる場が議会であると思っている。
 明治の初めの頃の文献を読み、私は深く頷くところがあった。木戸孝允や大久保利通らはこういう地方の“自立”を主張し、市町村レベルの議会を重視していたのだと。私が目指しているのは地方議会を良くしていこうということである。そのために「自治体議会政策学会」では議員に気付きを促すような研修を目指している。そして、木戸孝允や大久保利通らに同じ志を見て夢中にもなり、また心を強くしているところである。
 その場かぎりの流行りの思想に振り回されてはいけない。自分とその周辺、そして現在ばかりに拘泥するのではなく、視野を広く放ち、遠い先、50年後、100年後を見据える必要がある。狭い島国ゆえ、ボタンを掛け違えるとこの国はやがて行き詰まる。そうならないためにも、将来の日本人に対して「恥ずかしくない」生き方をすることが大事である。自分だけ、いまだけ良ければいいというのではなく、自分の死後のこと、先々のことを考えて生きていく覚悟をしなければならない。

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