【取材/2013年】
創業から2代目まで
佐野鉄工(2016年、株式会社佐野テックに名称変更)の創業は昭和7年、佐野喜一が始めた船鍛冶屋がスタートだった。2代目の息子・健一が橋梁のジョイントを頼まれて作ったことがきっかけで、橋梁のジョイント製作を手がけるようになる。その後、東京ファブリック工業株式会社という橋梁関連部品を販売する会社の下請けとして、ジョイント部分の金物を製作した。当時は親方一人に職人一人という典型的な鍛冶屋だった。
昭和52年、社長の佐野明郎(以下、佐野)が健一の娘と結婚し、婿養子という形で佐野家に入った。当時、佐野は不動産会社で働いていた。結婚する時「跡は継がない」という約束だった。しかいどうしても断れない状況になり、佐野は会社を辞め佐野鉄工に入社する。しかし佐野は全くの素人で溶接も何もできない。そこで名古屋の職業訓練校に行って溶接の免許を取った。
健一は腕のいい職人で、仕事は途切れることなくあった。佐野鉄工は社員こそ3人という小さな鍛冶屋だったが、それなりに利益はあがっていた。
ある日、健一に「人を探して来い!」と言われた佐野は、職安に出向いた。しかし職安の書類を見て頭を抱えてしまった。給与や休日、保険等が何も決まっていなかった。それからというもの、佐野は帳簿を整えたり、就業規則をまとめたり、少しずつ会社としての体裁を整えていった。
「先代は昔気質の頑固な典型的な職人でした。腕は良かったけど、会社組織を整えるという事には興味がなかったんです」。
平成6年、その健一が亡くなった。その時、初めて責任の重さを痛感した。とりあえず仕事をこなさなければならないのだが、納期が間に合わない。顧客に怒られることもしばしばだった。受注した仕事はとても社内だけではこなせないため、外注を使ったりしてなんとか納品していた。
免震装置を手がけ急成長
そんな佐野鉄工に転機が訪れた。きっかけは平成7年に起こった阪神大震災だった。震災時、パッド型ゴム支承ほとんど壊れなかった。橋梁の支承の見直しがはじまった。東京ファブリックは免震装置の生産に入る事になり、下請け各社に免震装置を作れるかどうか打診した。「やらせて下さい」佐野は手をあげた。
「今まで自分の実績として誇れるものはなかったんです。実際、対外的に会社を動かしてきたのは私でした。でも社長がいる間は全て社長の業績になりますよね。だから『これが自分の実績だ』と言えるものが欲しかったんです」。
気負いだけで仕事を請けた佐野だったが、現実は簡単ではなかった。当初、外注でこなそうと考えていたが、外注先は採算が合わないと仕事をしぶった。困った佐野は4400万円を投資して機械を導入し、社内で免震装置を製作することに成功する。その後、免震装置の需要は急増し、売り上げは右肩上がりで増えていった。社員も年を追うごとに増え、平成11年には20名を超えた。
そんなある日、一人の若い社員が言った。「僕は一生組立の仕事をやるんですか?」。佐野はその言葉にショックを受けた。「目の前の仕事をこなすだけで精一杯で、会社の先も、社員の将来も、何も考えてなかったんです。これではダメだと思いました」。
佐野鉄工の売り上げが増えるにつれ、全国で10数社ある東京ファブリックの下請け企業から「なぜ佐野ばかりに仕事が行くんだ」とやっかみが出るようになった。佐野は他社との差別化を図るため、ISO取得することを決意。平成12年、取得に成功する。まだISOが制定されてすぐの頃で、取得番号は一桁台だった。ISOの取得は製品の品質を一定にすることに効果を発揮。仕事量はより増えていった。従業員も平成21年には40人を超えるようになった。
社員教育の一環としてカイゼン見学会を実施
次に佐野が手がけたのは、工場内を明るく綺麗にすることだった。橋梁の仕事は99%が役所相手で、役所やゼネコンから立会い検査に来る。製品は作業工程ごとに検査しているので完成品は100%問題はない。指摘されるのは検査官の主観的なところが問題だった。例えばメッキの表面仕上げなら、見る角度で色の変化が気になる‥そういった点を指摘される。品質には全く問題ない部分だが、検査をパスできないと全ての出荷がストップしてしまう。
「まだ先代の社長が元気だった頃、某市役所の立会いで、検査官の人が言われたんです。『なんだこの汚い工場は。最先端のものを作っているのに工場が汚いな』って。その時、思ったんです。検査に通るにはそういう見た目も大切なんだと。鍛冶屋って薄暗くて汚くて、入っていくと古参の職人たちに睨み付けられる、そんなイメージがありますよね。でも、それじゃダメなんです。検査官がいらっしゃった時、気持ちよく検査をしてもらえるようにしなければ」。
「お客様が工場内で気持ち良く過ごしてもらうためには、社員全員におもてなしの気持ちがないとダメだ」と佐野は考えた。しかし「お客様をもてなす」と言っても、普段機械と格闘している社員たちにとって簡単なことではない。そこで佐野は、社員教育を兼ねて「カイゼン見学会」を実施することにした。年4回、佐野鉄工で取り組んだカイゼンの実例を、一般の見学者に説明するイベントだ。平成21年、第一回のカイゼン見学会を開催。以降、年4回のペースで実施している。社員たちが交代でカイゼン事例を見学者に解説し、質問があれば答えていく。カイゼン見学会を経験することにより、社員たちの接客のスキルは明らかに向上した。しかもカイゼン見学会の前には自発的に会社の掃除をするようになり、工場の美化にもつながった。佐野鉄工の「カイゼン見学会」は業界紙に取り上げられるなど、北勢では広く知られるようになっていった。
スカイライトチューブ三重代理店を設立
佐野鉄工は平成22年、子会社のスカイライトチューブ三重を設立し、スカイライトチューブの販売を開始した。きっかけは前年、滋賀県で開催された産業展だった。株式会社井之商が展示していたスカイライトチューブを見た佐野は「これは凄い」と直感した。
「こんなことができるんだって、目から鱗でしたね。これからの商品だと思いました」。
佐野はすぐさま井之商と契約を結び、三重の総代理店となった。
スカイライトチューブとは、屋根から太陽光を取り込み、それをアルミチューブの管を通して階下の部屋に届けるシステム。日本に上陸したのは10年ほど前だが、当時は採光部から雨漏りするケースが多発し普及しなかった。しかし井之商が雨漏りしない採光部を開発し、以降、普及しはじめていた。
「天窓は太陽が真上に来ないと明るくないんですが、スカイライトチューブは朝日から夕日まで取り込むことができるんです。雲が動くと光も動くし、夕日はオレンジ色に、月夜の晩は月明かりになります。もちろん電気代は無料ですしね」。
福島原発事故以降、節電への関心が高まっている。昼間の照明は電気代ゼロのスカイライトチューブも、節電のための有効なツールであることは間違いない。
「免震装置を始めた時に阪神大震災があって、それが免震装置の需要拡大に繋がりました。東日本大震災があって、節電への関心が高まった。大きな災害がないと人間は変わろうとしません。犠牲が伴うのは悲しいことですが、そういう災害をきっかけに皆が気付いて、それを克服しようと進歩していくのが人間だと思うんです。そういう意味では、うちの会社もそんな進歩の一端を担わせて頂いているのかなと思っています」。
佐野 明郎氏プロフィール
昭和27年9月13日四日市市堀木町、養蜂業の家に三男として生まれる。昭和46年3月県立四日市工業高校建築科卒業。昭和46年4月三交不動産に入社。昭和56年佐野鉄工入社。平成6年(株)佐野鉄工代表取締役に就任。
株式会社佐野テック
※2016年、佐野鉄工から佐野テックに社名変更
※2019年、佐野貴代氏が社長就任
【本社工場】
三重県三重郡菰野町大字千草5051番地9
TEL:059-391-0200
WebSite:http://www.sano-tec.jp/