家業であった水耕栽培の経営難航を機に創立された株式会社日本総合施設。今年で創業31年を迎えた同社は電気工事・電気通信工事業を主に地元四日市を本拠地とし、東京、静岡、北海道など幅広く事業所を展開している。異業種への転業で成功をおさめた里中俊雄社長に、転業までの経緯、通信工事業の仕事の在り方などをうかがった。
水耕栽培から通信工事業へ。思い切った決断が好転する
地元四日市を本拠地に、東京、静岡、北海道と事業所を展開する株式会社日本総合施設。昭和59年に株式会社として発足以来、今年で31年を迎えた。主にケーブルテレビ工事、通信線工事、電話線工事、LAN工事、交通信号機工事など、幅広いコンストラクション事業及び保守サービスに携わり高度な技術力を武器に幅広い分野のニーズに応えている。
日本総合施設がスタートしたのは株式会社になる2年前の昭和57年。現在、代表取締役社長である里中俊雄は大学卒業後、有線電話工事のアルバイトを経て、新たな農業である水耕栽培で野菜を生産する仕事を夢を持って始める。土を使わない水耕栽培はガラス温室で行われるため、天候や害虫の影響を受けることがほとんどなく、安定した品質の作物をたくさん作ることができる。そんな安定した生産力のある水耕栽培だったが、里中がこの仕事を始めて2年、3年と経つにつれ、露地栽培に左右され売り上げが不安定になり始めた。専用の水耕機材やガラス温室など、設備へ投じた費用の返済もままならぬ状況となった。他業で生計を立てていかなければならないという立場に立たされた。
そこで里中は以前アルバイトをしていた電話工事の経験を生かし、電気工事事業を始めようと決心する。「水耕栽培をなんとか続けていくためにもほかの仕事で食いつないでいかなければ」という思いで、ケーブルテレビ工事の経験を持つ弟を巻き込み、スタッフ3名を加えた計5人で電気通信工事事業をスタートした。これが現、株式会社日本総合施設の前身となる。この時、里中は27歳。水耕栽培事業の不振をきっかけに始まった電気工事事業は、その2年後株式会社日本総合施設として設立した。
株式会社としてスタートした当初の仕事は電話工事と難視共聴の工事だった。しかし、工事料も少なく売上が伸びない状況が続く。そんな矢先、電力需要の拡大に伴い鉄塔、変電所などの設備増強工事が動き始める。日本総合施設はその工事による電波障害の対策事業に着手することになった。しかしスタートから1、2年は利益も伸びず5人でひと月の売り上げが100万程度。俊雄自身も1年のうち半分ほどしか給料がもらえないという厳しい時期が続いた。そんな中、俊雄を助けたものがある。それは家業である水耕栽培だった。
「一度は危ぶまれた水耕栽培ですが、妻や両親によって続けられていたんです。その収入と、もともと行っていた稲作でコメには不自由なくなんとか食べていけましたね」
里中の立ち上げた電気工事事業で存続が守られていた水耕栽培。今度は日本総合施設が先祖から受け継いている田畑に助けられる事となった。
難視聴対策として発展したケーブルテレビ。その普及と共に大きな躍進
家業の水耕栽培に助けられ低迷期を乗り越えた日本総合施設は、平成元年より地元のケーブルテレビ会社CTYと出会い、ケーブルテレビの保守や工事などの業務をスタートさせた。
「当社はもともとビル陰による難視対策、送電線による難視対策が主な仕事でした。四日市市内には多くのビルが建っており、どのビル陰による難視障害かがわかりにくい状況だったんです。そこで四日市市は難視対策として当時CTYの前身であった(株)ケーブルテレビジョン四日市にその対策を依頼することになりました。ケーブルテレビによってビル陰難視を緩和するという対策です」
その後、四日市市は街中の難視地区のみならず全市に対して補助金を出し、映像による格差をなくす目的で難視対策を進めていった。また、国の対策として通信の規制緩和、情報格差をなくすために国、県、市などからも補助金が出るようになった。ケーブル事業のエリア拡大に拍車がかかり、全国でも数多くケーブル事業者が生まれた。バブルが弾けた暗い時代、通信事業だけが新たな時代に向け動き始めた。
「当社もケーブルの仕事で売り上げを伸ばしました。CTYはそもそも都市型CATVから始まり、難視地区の共聴対策、複合難視に積極的に取り組み、加入者を増してエリアを拡大していきました。当社もCTYとともに成長したと言えますね」
四日市が全家庭にケーブルテレビを網羅し、CTYは全国的にも名が通り、ケーブル業界でも認められるようになった。その一環を受け持ったというのは日本総合施設にとって非常にプラスに働き、大きな自信と実績を得たという。
会社の将来を見越しての拠点拡大。そして業務の多様化
こうして地元のケーブルテレビの発展に貢献した同社は、他県への進出も果たすようになる。現在、支店・営業所は北海道に2拠点、東北1拠点、関東5拠点、北陸1拠点、東海4拠点、関西1拠点で従業員133名にまで膨らんだ。
他県でも事業展開を行った理由を、里中はこう述べる。
「ひとつの事業周期は30年と言われますが、未来永却も成長し続ける企業は少ない。ケーブルテレビ業界も同様です。エリアの拡張、新しい技術の開発、設備投資を繰り返す間はいいのですが必ず仕事には波が来る」
そこで、里中は今後安定した企業としてやっていくために、業務内容の多様化も視野に入れるべきだと考えた。
「当社の名前のごとく、日本で総合的に事業展開を行うことを目的に、拠点の拡大と業務の多様化を図っていきたいと考えています。ようやく復興の兆しが見えてきた東北大震災。今後も東北に拠点を持つ私たちにできることを考え実行していきたいと思います。また2020年東京オリンピックに向け、道路、陸橋、競技施設など日本各地で事業が動き始めています。今、アベノミクスによる内需拡大、リニア新幹線などはその一つで、大企業による国外での生産撤退、国内生産への切り替えなど大きく動き始めているのは確かです。地域の要望、国家プロジェクトなど、世界の動きに対する技術の変革への対応などありとあらゆる動きに対応するために当社も新しい技術の習得、拠点の拡大に努めています」
平成21年に進出した北海道では、釧路市阿寒町に光ケーブルのリサイクル工場を建設、さらに工事部門の事務所も開設した。
子供の頃の夢は、いつかは社長になる
趣味は仕事という里中。仕事をしているときが一番自分らしく自由に感じるという。そんな里中の少年時代の夢。それは「いつかは社長になる」だった。
「子どもの頃、いつも同じ道でクラウンにすれ違っていた。当時“いつかはクラウン”という有名なCMのキャッチフレーズがあったのですが、そのイメージがいつも頭の中にあり、自分もいつかは偉い人になりクラウンに乗りたいと思っていたんです」
その気持ちを抱いたまま大人になり、この仕事に入った時も、そこには自分の身近にはお世話になった取引先や知り合いの社長さん方の存在があった。
「お世話になった社長さん方を見るたびに自分もああいう社長になりたい…と、憧れを抱いていましたね。ああなりたい、こうなりたいという目標を持ち、一つ一つクリアしていくことで喜びを積み重ねていきましたね」
生まれ変わっても、今と同じ人生を送りたい
あと数年したら2代目にバトンを渡すつもりだという里中。現在、事業ノウハウや経営理念はもちろん、自分自身の反省部分も2代目に伝授しているところだという。
生まれ変わるとしたらもう一度今と同じ人生を歩みたいという。
「違う職業を選んだり違う国に生まれるのではなく、今と同じ人生を歩みたい。もちろん家内も今のまま。ときには喧嘩や言い合いもありますが、出張先や旅行先など一人になった時などにふと、愛おしく感じます。年輪の深さでしょうか」
人生に悔いはないという里中。でも、その中でもう少しこうすればよかった、ああすればよかった…と変えられるものなら修正したい部分も少しはあるという。
「ああしていれば社員がもっと喜んでくれただろうな、もっと会社が伸びただろうな‥と。今は100%の幸せと思っているが、その100%がいろいろ出てくる。人間は欲深いですね」
『共に勝ち共に幸せになる』という社是の通り、自分だけ勝つのではなく、社員の物心の満足を追求すべきだという俊雄。
「若い時は一目散に走ることもある。でも歳を重ねて涙もろくなり、感慨深くなると小さな事一つ一つに感謝感動するようになってきた。エゴ的なことはやらずに自分の周りの人達の幸せを考えてよかったなと言えることをやっていきたい。その行いが波紋となって地域社会の人々のしあわせを追求出来たらいいですね」
数年後には二代目に社長の座を譲り、自分は第二の人生を農業で過ごしたいという俊雄。
自分が幸せにならないと周りの人を幸せにすることはできない。まさに社是を実践する人である。