What’s New 三重の企業人たち

有限会社山口陶器社長 / 山口典宏

山口典宏

ラグビー一筋だった男が父親の会社を継いで目指したのは、「家業」を「企業」にすること。地場産業の新しいカタチを実現させるため、未来へのビジョンを掲げてそれにつき進む山口氏。その半生と今後について話を伺った。

-まずは、会社の創業の経緯について教えて下さい。

 有限会社山口陶器は父親が昭和48年に創業したんですけど、僕が生まれたのが昭和50年。だから僕が生まれたのはほんと忙しい時で、遊んでもらった記憶がほとんどないんですよ。遊び場が工場だった感じですね。
 父親はまあワンマンだったけど、反面、人の面倒をよくみる人でした。名前をいうとみんなが「ああ」っていうぐらい、やんちゃだったみたいです(笑)。

-子供の頃はどんなお子さんだったんですか?

 いつも母親の膝の上で泣いてるような子供でした。でも小学校3年のときにマラソン大会で1位になって、それが転機だったかな。1年生のマラソン大会、僕は2月生まれなんですけど、4月生まれの親友がマラソン大会で3位だったんです。僕は19位。それが悔しくて、そこから毎日走って、2年生で3位、3年生で1位になったんです。その時「やれば出来る、行動すれば変われる」って気づいて、そこから変わったかな。
 小学生の時は地区のソフトボールをやっていたんですが、中学校でラグビーを始めて、全国大会に出場することができました。高校でもラグビーをしていました。小中高とキャプテンをやらせてもらいまして、そのことは人生の中でありがたい経験だったなって思います。

-中学・高校生活はどんな感じでしたか?

 中高の時はラグビーしかしてなかったですね(笑)。高校を卒業して、地元のラグビー部がある会社に就職しました。サラリーマン時代は、会社のラグビー部に所属しながら地元で友達とクラブチームを発足させました。ラグビーができる環境ってあまりないんですよ。当時はクラブチームって少なくて、企業チームしかなかった。企業に就職しない限りラグビーを続けていく環境がないっていうのが、はがゆかった。誰でもラグビーが出来る環境を作りたいと思ったんです。

-ラグビー一筋って感じですね。

 そうですね。ラグビーのおかげで今があると思ってます。中学の時にラグビーに出会って、ラグビーを通じていろいろなことを学びました。ラグビーには感謝しています。

-ラグビーをやってきて、印象に残っている出来事は?

 高校の時に三重県代表に選ばれて、東海地区の大会に出場したりして、そこで色んな人達と出会えたことがいい経験でした。ラグビーやってるっていうだけで友達になれる。ラグビーは15人でやるんですけど、人数が多いスポーツなんです。そして一番難しいスポーツなんじゃないかと思うんです。15人まとまらないといけない。規律を守らなければいけない。ボールを持ったら個ですけど、それをサポートするために他の選手がしっかり動かなければいけない。
 中学校のときは何もわからず、丸じゃないボールを渡されて訳も分からずやってました。それはそれで楽しかったし、3年生でキャプテンになって、花園にも行くことができました。で、高校1年生でラグビー部に入った時、僕らは経験者だったんですけど、まわりはほとんど未経験者なんです。1年先輩でも1年しかラグビー経験がない。僕たちはもう3年やってる。でもやっぱり先輩後輩ですから、そういう先輩たちとどう接していくのか?ってことも学ばせてもらいました。ほんとにずっとラグビーをやってきて、そこで学んだことって、僕の人生にとってとても大きかったと思います。

自身が発足したクラブチーム「菰野ラビッツフット」引退試合

-27歳の時に会社を辞めて家業を継がれたんですが、それはお父様の希望だったんですか?

 いえ、違います。会社を辞めることは反対されました。一応、大企業だったんで「なんでこんな衰退業界に来るんや?サラリーマンしとったほうがいいに決まってるやろ!」って。30年くらい前は萬古焼の組合員は250社くらいあったんですけど、今は50社ぐらい。生産者の数も出荷金額も全盛期の5分の1という業界なんです。僕も最初は継ぐ気は無かったです。でも、なんだかんだいってこれで食べさせてもらって、これで学校も出させてもらったんで、それを無くすってどうなのかな?って思って、27歳になる時に決断したって感じですね。

-働いてみて、どうでしたか?

 古い業界だと思いました。しがらみとかも多かったし。手で伝票書いてましたしね。手で伝票書いてるとかありえないじゃないですか? でもそれが当たり前なんですよ。でもだから逆に、改革をすることは簡単っていう部分もありました。やるべきことはいくらでもありましたから。体質なんですよ。仕事がどうこうじゃない、会社の体質が古いと感じました。やっぱり「家業」なんです。それを「企業にしていかないと」って感覚で、毎日、父親とケンカしながらやってました(笑)。まあ、親子だからできたんでしょうね。
 でも、面白かったですね。これで食っていく!って決めた時点で覚悟決めてるんで。このままではやっていけない。じゃ、どうすればいいのか?ってことを、常に考えていました。
 30年~40年前、四日市、菰野に焼き物屋がたくさんあって、雇用が生まれて、儲かってたから法人税もたくさん払って。だから行政も地場産業を優遇して、補助金なりなんなり出したわけじゃないですか。でも今はそうじゃない。僕たちの上の世代の人って、まだまだ「地場産業だから市や県が何とかしろよ」みたいな主張があるんですけど、僕はナンセンスだと思います。地場産業って「地場に貢献する事業」ですよね。地場のためにならなかったら、それは単に自分の事業です。それなのに、県や市に「補助金をくれ」とか、おかしいじゃないですか? 地場にある意味は何なのか?ってことをしっかり見据えて、新しい地場産業の形を作っていかないと。
 でも、地域産業であることは間違いないんで、そこはやはり私たちの世代が考えてやっていかないと、次の世代に残っていかないですよね。僕が思うのは、先代の父親が50年かけて作ってくれた土台の上に、次の50年の土台を作るのが僕の仕事だと思っているんです。

-山口さんが目指す新たな土台作りという面で、一番重要だと思ったことはなんですか?

 一番強く思ったのは、自社ブランドの必要性です。今までは下請けで、大手の雑貨屋さんとかの仕事を受けてやっていました。でもそれじゃ大手の方針に従うだけじゃないですか。例えば200店舗持ってるA社さんの仕事をやってたら、その時は楽ですよ。でもある日、A社さんの会議で「これ廃盤ね」って決まれば、仕事がいっきに無くなってしまう。だから相手任せになっってしまう状況から抜け出すために、自社ブランドを作ったんです。OEМ生産から自社ブランド生産に切り替えようということですね。

-簡単に「自社ブランドを作った」とおっしゃいましたけど、大変だったこと、苦労されたことはありましたか?

 ブランドを始めた1年目は赤字でした。新商品開発には相当お金もかかりましたし。やはり目先のお金がどんどん減っていくのを目の当たりにすると、びびっちゃいますよね。今まで通り問屋さんの下請けに戻ろうかな?みたいな気持ちになることもありました。自分の貯金も全部入れて、必死でした。
 でもブランドを立ち上げる前に、数年先までの計画を建てていたんです。ブランドを作ります、年間にどれだけの展示会に出て、1年目の売上はこう、2年目の売上はこう、商品数はこうって、細かく計画を建ててた。だから赤字が出ても我慢できたんです。次の計画がちゃんとあって目標があったから、我慢できたんだと思います。その我慢が出来るか出来ないかっていうのは、事業を大きくしていく上で重要なんじゃないかなと思います。
-自社ブランドを作ったことに関して、お父さんは何か言われましたか?
 父親は引退してからは一言も言わなかったし、現場にも入らなかったです。陰でどう思ってたかは知らないですけど、「アホなことしやがって」と思ってたんじゃないかな?(笑)。何か新しいことを始めると、やはり結果が出るまではそう見えるじゃないですか。それはもう仕方ないかなって。

-ブランドを作る上で重視したことはなんですか?

 ブランドとしてのコンセプトをしっかり決めて、コンセプトにぶれないものを作っていくっていうことですね。「食卓を通じて幸せを届ける」というブランドコンセプトを最初に掲げたんです。だから「じゃあこの商品が食卓で、そこの家族に幸せを届けられてるの?」ということを常に考えて商品開発をしました。「売れるから作る」ってのはマーケットインなんです。お客さんのとこへ行って「これ今2000円で売ってるけど1800円で作りますよ」っていうのは簡単です。でもそれはマーケティング。僕たちがやるのはブランディングなんです。
 世の中、物が溢れて余ってる時代じゃないですか。どこの家に行ってもお皿もあるし茶碗もある。そんな時代に物を買ってもらうなんて、基本的に至難の業です。じゃあ何で買ってもらえるの?っていったら、作っている人たちの想いとか、土地のこととか、そういういろんな背景をちゃんとお客様に伝えて、それをわかってもらわないとダメなんです。だからはじめのうちは年に4回以上、展示会に出ようって決めて、展示会でバイヤーさんなり店長さんに私たちの想い、商品の想いを伝えていました。その商品の想いが伝わったら、そのお店の店長さんは買ってくれる。そして、その店長さんがまたお客さんに伝えてくれる。それを3年間しっかりやりました。

-その後「かもしか道具店」の店舗を作りましたよね。それも計画通りだったんですか?

 ブランドを作って3年後には店を出すって決めてました。すべて計画通りです。人って弱いから、どれだけでも逃げれるじゃないですか。だから逃げれないように、常にアウトプットしていくことが必要だと思うんです。有言実行っていうか「ブランドを作ったら3年後にこんな店をやるんだ!」って人に言うとかね。
 店をこんな田んぼの真ん中に建てたのも、わざわざ来てほしいからなんです。銀行さんは「もっと幹線道路沿いのところがいいんじゃないですか?」言ってましたけど、僕は「ここにする意味があるんです!」って。ここ数年は、この店だけですごく集客できるようになったんで、もう誰も何も言わないですけどね。お客様はわざわざ「かもしか道具店の本店に来たい」っていって他県から車で来てくれるんです。

-ここまで順調にビジネスを伸ばしてこられたのには、ブランディングの他に理由はありますか?

 ブランドをはじめて1年目、2年目は売上は上がりましたけど、そこから3年間は横這いでした。でも、それからはずっと上がり続けています。売り上げが上がった原因は、その3年の間にスタッフを充実させたからだと思います。優秀な人が社員として来てくれて、チームになってきたってことでしょうね。それは言い換えると、家業から企業にかわったということです。父親の時代は、求人出しても近所の人が「近所だから仕事に来る」って感じでした。でも今はインスタグラムに「スタッフ募集」って書くだけで「ここで働きたい!」っていう人がたくさん応募してくれるようになりました。
 うちの社員は皆、僕より優秀です。芸大や美大出ましたとか、CAD使えます、イラストレーター使えます、カメラのスタジオにいたんで写真撮れますとか、そういう人たちが集まってきてくれたことが、ブランディングの一番の成果なんです。売上じゃないんです、人なんです。
 僕の役割は方向性を決めることです。「会社としてこうなって行きたい」ということをきちんと示せば、そのコンセプトに賛同してくれる人が集まってきてくれるんだと思います。

-今後5年10年くらいの目標をお聞かせ下さい。

 「新しい地場産業を作っていく」っていうのが、僕が考える会社の目的です。事業を発展させることで、地元に貢献したいということです。もっと私たち菰野町民が菰野町のことを知って、ここに来た人たちが次に繋がれるような、ここに来たいっていう人が増えていけるような町にしたいですし、そのための会社でありたい。うちの工場の前の敷地に人が集える場を作りたいと思っていて、今、計画を立てているところです。「菰野町って面白いらしいよ」じゃなくて、来た人が「面白かった」って思って、それを誰かに伝える。こういう一次情報って、ネットや誌面からみる二次情報と全然別物なんです。タクシーのおっちゃんに「おいしいラーメン屋ない?」って聞くと、情報誌に載ってない小汚いけどめっちゃおいしいとこ教えてくれるじゃないですか。そういう一次情報で繋がれるようなことを、うちを通じてやれるような環境にしたいなと思います。
 お金儲けが目標じゃないんです。目的を達成する為にお金を儲けないとダメだっていうことなんです。なぜこの会社やってるの?って、お金儲けなんですよっていったら、なんか寂しいですよね。そうじゃない、お金を儲けた先に何をやるか?をちゃんと持ってやっていくことが、大切なんじゃないかなと思ってます。


パートさん含めて社員25人

山口典宏氏プロフィール

昭和50年2月生。平成5年、県立四日市工業高等学校卒。同年、日本合成ゴム株式会社(現JSR株式会社)入社。平成15年、退社。同年、有限会社山口陶器入社。平成17年、4th market参画。平成22年、有限会社山口陶器代表取締役就任。平成26年、かもしか道具店ブランドデビュー。平成8年、かもしか道具店実店舗設立。平成30年、株式会社菰野デザイン研究所設立。

有限会社 山口陶器

〒510-1224
三重郡菰野町川北200-2
TEL 059-393-2102

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