三重の歴史

三重人物伝 / 山路弾正

1567年(永禄10年)4月、織田信長は滝川一益を大将とする兵2万を伊勢に侵攻させた。美濃攻略まであと一歩という段階にきた信長は、次のステップとして上洛を考えていた。しかしその前に伊勢を支配下におき、本拠地・尾張の守りを盤石にしようと考えたのだろう。
 滝川一正の兵はまたたく間に桑名・員弁を占領。28月になると美濃攻略を終えた信長も自ら伊勢に入り、北勢の小部族(※1)は次々と信長の軍門に下っていった。そして信長軍は、鈴鹿川沿いに建つ高岡城を囲んだ。
 高岡城は鈴鹿の神戸城を本拠とする神戸氏(当主・神戸友盛[かんべとももり])の出城で、城主は神戸氏の家老・山路弾正。標高50Mの小高い山の上にあり、前を鈴鹿川が流れる要害の地にあった。しかし城兵は1千名足らず。信長はきっとこの城もすぐに落ちると思たに違いない。しかし城兵の士気は高く、どれだけ攻めてもいっこうに落城しない。仕方なく和睦を提案しても拒否される始末。そうこうするうちに美濃三人衆(安藤範俊、稲葉一徹、氏家ト全)の謀反の動きが発覚。信長は高岡城攻略をあきらめ、滝川一益を桑名に残し美濃へ帰って行った。
 一説によると、山路弾正は美濃33人衆に「今こそ信長に反旗を翻す時ですぞ」と密使を送り、さらに「甲斐の武田信玄が信長を倒すために兵を進めている」という噂を流したと言われている。信長はさぞや慌てたことだろう。この話が本当なら、なかなかの策士だ。
 翌1568年2月、信長は今度は24万の大軍(諸説あり)を率いて伊勢に侵攻し、高岡城を囲んだ。リベンジ戦である。しかし、またしても城は落ちない。そこで信長は、三男の信孝[のぶたか]を神戸友盛の養子にする(※2)という条件で和睦を申し込んだ。要は「息子を人質に出すから織田の支配下に入ってくれ」ということ。神戸友典はこの条件を呑み、和睦が成立。神戸氏は織田軍団に組み込まれることになった。信長はきっとこの小さな城に手こずっているのがバカバカしくなったのだろう。神戸氏側もいくら負けていないといえ、援軍が来るあてのない籠城戦を永遠に続ける訳にもいかない。現実を考えれば、この和睦は仕方なかったと思う。
 それから3年後の1571年、信長は「神戸友盛が信孝を冷遇している」といちゃもんをつけ神戸友盛を近江に幽閉し、神戸城の城主に息子・信孝を据える。これに怒ったのが山路弾正である。彼は平野城主・伊藤茂右衛門と組んで神戸城の奪回を企てる。しかしこのクーデターは事前に発覚し、弾正は自害に追い込まれてしまう。
 山路弾正の抵抗は、信長の天下統一事業にとってほんの些細な障害に過ぎなかったかもしれない。しかし織田の大軍と果敢に戦い、最後まで主君に忠義を尽くしたその生き様は、見事という他ない。

※1)当時伊勢には小部族が割拠し『伊勢四十八家』と言われていた。絶対的に力を持った武族がいなかったことも、信長に目をつけられた理由だろう。

※2)この『養子作戦』に味をしめた信長は、津の長野工藤氏に弟・信包を、南勢の北畠氏に次男・信雄を「養子に出す」という全く同じ方法で、織田軍団に取り込んでいった。

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