松尾芭蕉は三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師。和歌の余興だった俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、三重県の誇る、日本史上最高の俳諧師だ。
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。
舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。
月日は永遠の旅人のようなもので、移りゆく年もまた旅人のようなものだ。
舟の上で一生を送る船頭や、馬のくつわを取って老年を迎える馬子などは、毎日が旅であって、旅そのものを住みかとしている。
【奥の細道、冒頭部分】
「奥の細道」は、松尾芭蕉が弟子の河合曾良を連れて元禄2年(1689年)、江戸から奥州、北陸を旅したときの紀行文。芭蕉たちは5か月間、関東、東北、北陸をめぐり、2年後に江戸に戻った。「奥の細道」には多くの俳句が詠み込まれており、紀行文学の最高傑作と呼ばれている。
芭蕉のこの旅の目的は、日本三景のひとつである「松島」や藤原三代の都であった「平泉」を訪ねることだった。特に平泉は芭蕉が尊敬していた西行法師が人生で2度も訪れた土地だった。
平泉は1094年に藤原清衡(きよひら)が居城を建築して以来、2代基衡(もとひら)、3代秀衡(ひでひら)が治め、平泉文化として栄えた場所。平安末期、鎌倉幕府を開いた源頼朝から追われた源義経は、この平泉に逃げ込む。「義経を大将とするように」という秀衡の遺言にもかかわらず、1189年、4代泰衡(やすひら)は義経を自害に追い込む。その後、義経をかくまったとして源頼朝軍が奥州を攻め、藤原家は滅亡する。
芭蕉は平泉に到着すると、義経が最期を迎えた場所、高館(たかだち)にのぼった。義経は弁慶などのわずかな家臣と供にこの高館の城にたてこもり、最後の戦いを繰り広げ、散っていった。この時のことが「奥の細道」にこう記されている。
さても義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷て、泪を落とし侍りぬ。
芭蕉は杜甫の詩「春望」の一節「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」を口ずさみ、笠を地面に落としたまま涙を流した。芭蕉はこの場所で、義経と義経を守るために戦った家臣たちを思い、さらに藤原家の繁栄と滅亡といった、人の世の無常に思いをはせたのだろう。
夏草や 兵どもが 夢のあと
有名な「夏草や兵どもが夢のあと」という句は、この時、詠まれたものだ。義経を守るために戦った家臣たち。最後には源頼朝に滅ぼされる藤原家。繰り広げられた数々の戦いも、時の流れの中であとかたもなく消え去り、儚い夢のあとには、ただ夏草が茂っている…。人の生の営みの儚さを詠んだ傑作だ。