修行の転職、海外で直売。行動力が扉を開く
1850年に創業した森欽窯業株式会社。代々受け継がれ、現会長・森純孝で5代目となる。純孝は昭和18年、四日市市生まれ。大学卒業後、森欽窯業株式会社に入社するも、修行のために名古屋のコンサルティング会社に転職する。
「一度はよその飯を食えの精神ですよ。よその会社で働いてみて初めてウチの会社の事がわかる」。純孝はやがては森欽窯業の社長に就くその前に、外に出て仕事の在り方について考えておく必要があったと言う。
28歳になった純孝は3年間勤務したコンサルティング会社を辞め、森欽窯業に戻る。その6年後の昭和52年、社長に就任する。
戦後始めた陶器の海外輸出事業は、純孝の代になりさらに利益が上がった。なぜなら自ら輸出先のアメリカやヨーロッパに出向き、直接お客さんに受注・販売を行うようになったからだ。
「僕は5代目だから、単に会社を潰さないようにすればいいと思っていたんです。でも思いのほか儲かった。儲けたら社員に分配。ボーナス3倍も実施しました。そうすると社員の士気も高まるし会社を辞める人もいない。それが長く続くコツじゃないでしょうか」。
自分はどうあれ社員が潤えばいい。儲けたらその分頑張ってくれた社員にあげる。仕事で出向いたアメリカ式の考え方が純孝のポリシー。今でもその気持ちは変わらないという。
西洋の習慣を意識した商品を提供
戦争が終わった昭和20年は車もテレビもない、今とは想像もつかないほどモノのない時代。それから10年も経つと高度成長期に入り、繊維、鉄、造船、陶磁器など重厚長大型の産業が右肩上がりで伸びて行った。森欽窯業も約800人もの社員を抱えた大企業となった。
当時、焼き物は手作り品として西洋では価値が高い品物だった。手描きの絵付けが施された焼き物などは人気でアメリカ人も好んで買いに来た。日本人は器用で時代に合ったものを上手く作る。デザインの性強い凝った器なども得意だ。森欽窯業はそうした西洋人の生活習慣や好みを取り入れた陶器の制作に着目し、それらの輸出で事業展開していった。そのため純孝も年2回、アメリカとヨーロッパに陶器を卸しに行った。
「日本じゃ見向きもされない製品を作っていましたね。例えばクッキージャー。焼き菓子などを入れておく蓋付の器ですが、この商品はアメリカの生活習慣ありきの品。日本でお菓子を買った場合、袋の口あけてそのまま取りだして食べちゃうでしょ?アメリカはこうした専用の器に入れて食べる。そういう習慣があるんです」
その時の流行り、習慣を反映させた商品を作って現地のスーパーに卸す。派手なもの、面白いものを販売すると子供が欲しがり良く売れる。
ヨーロッパではフランクフルト、ロンドン、パリ、アムステルダムなどを回り、お客さんから大量の注文もらって帰った。お客さんの中には自らオーダーのために日本に来てくれる人もいた。なんとも羽振りのいい時代だった。
取引先のひと言が、事業転換のきっかけに
そんな森欽窯業も昭和40年以降、経営危機に陥ることになる。かつては1ドルが360円だった時代からやがて240円になり、ついに100円の時代に突入したのだ。輸出で商売をしている同社にとって極端な円高は命取りだ。アメリカの得意先にも円高でもう商品を輸入できないといわれてしまう。
事業存続の危機に直面し、純孝は打開策を巡らせた。いっそ事業の規模を縮小させるか?いや、規模を縮小させたところで赤字は赤字だ。もうちょっと今のまま様子を見るか?いやいや、情勢は悪化するばかりだ…。そんな矢先、取引のあったアメリカのお客さんからこんな一言があった。「Mr.モリ、いっそこの工場の土地を利用してスポーツクラブでもやったらどうだ?」
アメリカでは早くからスポーツクラブが盛んで、純孝自身もアメリカで暮らしている頃、クラブに通っていた。
「スポーツクラブか・・・」その頃アメリカではスポーツクラブが全盛期。これからは健康事業が伸びると踏んだ純孝は思いきった判断を下した。従業員を半分にして新たにスポーツクラブの運営に乗り出したのだ。
とはいえ、陶器輸出業からスポーツクラブへと全く畑違いの業種へ転換することに、不安がなかったわけではない。しかし中途半端に陶器の事業を残しても赤字を増やすだけだ。今のまま指をくわえて衰退していくのを見ているわけにはいかない。かくして平成元年、工場跡地にオリンピアスポーツクラブをオープンさせた。
「360円の時代は儲ける事ができた。240円の時代は何とか飯が食えた。100円ではもう食えなくなった。これはまずいと思ったね」
アメリカの得意先にも円高でもう商品を輸入できないといわれてしまう。事業存続の危機に直面し、純孝は打開策を巡らせた。いっそ事業の規模を縮小させるか?いや、規模を縮小させたところで赤字は赤字だ。 もうちょっと今のまま様子を見るか?いやいや、情勢は悪化するばかりだ…。そんな矢先、取引のあったアメリカのお客さんからこんな一言があった。「Mr.モリ、いっそこの工場の土地を利用してスポーツクラブでもやったらどうだ?」
アメリカでは早くからスポーツクラブが盛んだった。純孝自身、何度もアメリカに出張していたので、スポーツクラブはよく知っていた。
「スポーツクラブか・・・」その頃アメリカではスポーツクラブが全盛期。これからは健康事業が伸びると踏んだ純孝は思いきった判断を下した。従業員を半分にして新たにスポーツクラブの運営に乗り出したのだ。
とはいえ、陶器輸出業からスポーツクラブへと全く畑違いの業種へ転換することに、不安がなかったわけではない。しかし中途半端に陶器の事業を残しても赤字を増やすだけだ。今のまま指をくわえて衰退していくのを見ているわけにはいかない。かくして平成元年、工場跡地にオリンピアスポーツクラブをオープンさせた。
日本でもスポーツクラブが流行る。その読みが的中!
当時、スポーツクラブはまだ数少なく、四日市はもちろん三重県でも初。東京、大阪、名古屋でもごく一部にしかなかった。
「周りにいろんな事を言われました。そんな新しいことを始めて上手くいくはずないと。でも、僕は自信があったんです。それはなぜか? 輸出を通じてアメリカの文化を知っていたからなんです」。
日本はアメリカを追随してきた。アメリカで流行ったものはいずれ日本でも流行る。スポーツクラブが盛んなアメリカの情勢を見て、純孝はスポーツクラブが日本でも受け入れられると確信していた。
その読みは見事に当たり、ダイエットやアンチエイジング、高齢者の体力増進、車社会で足腰の弱くなった人たちのトレーニングなど、健康ブームの広がりと共にスポーツクラブは日本人にもすっかり定着した。
「昔は働く事が重労働。働くことで足腰が鍛えられたけれど、現代は車社会になって足腰が弱くなった。おまけに飽食の時代。食べ物に不自由しないからみんなカロリー過剰摂取で太っていく。さらにはストレス社会で精神的にもスッキリしない。そういうものを一気に解消するものがスポーツクラブ。今や現代社会には欠かせないものの一つかもしれないね」
オープン当時は人が入るかどうかと不安視もされていたが25年経った今、スポーツクラブ需要はますます高まっている。
幅広い知識と情報力で先を読む
純孝が陶器輸出業からスポーツクラブへと事業転換を図った際、何よりも重視していたのが決断のタイミングだ。為替が1ドル100円になり、間もなく見切りをつけた純孝に、周りは早すぎる決断だと非難した。しかし純孝はそれを否定する。
「僕はむしろ素早い決断が命を救ったと思っている。案の定、情勢は今でも良くなっていないでしょう。もう少し様子を見ようとして失敗するのはよくあることだよね。でもそれは先々の見通しが利かない人のやる事だよ。僕は、半年という短い期間で一気に為替が100円になった時点でこの先の情勢悪化が目に見えた」
それと言うのも純孝は常に政治、経済の勉強、情報収集に余念がない。国債、銀行、エネルギー問題、文化、習慣、環境・・・幅広い知識を持ち鋭い意見を放つ。
「何かを行う時、世の中の情勢に敏感でないと上手くタイミングが掴めない。今動くべきなのか、それともじっと待つべきなのか、それは世の中の動きを見ていればおのずとわかる事だと思う。商売の事だけじゃない。原発の事、政治の事、経済情勢のこと、いろんな事をいつも関連付けて考えるべき」。
時には政治批評も。
「そもそも、陶器の仕事を続けていけなくなったのも、政治が悪いから。政治家の言う事をおとなしく聞いていたら、僕らみたいな商売人は損するばかり。いつ何時日本の情勢が変わるかわからない。だからいざという時に動けるように常にたくさんの情報と問題意識を持って、的確な判断をしていくことが重要なんです」。
スポーツクラブの運営についてもとことん勉強し、常に自分から動く。オリンピアスポーツクラブのスタッフは全員充分な知識と実務経験を持つ者ばかり。そうしたスポーツのプロたちと共に現場に立つためには専門用語、専門知識を事業主が知らなければ話にならないと考え、純孝は健康運動指導士の資格を取得。会員のお客さんに自ら健康指導もする。
世間の動きに敏感であること、そして幅広い分野の情報を得ること、そして自らすぐ動く事。畑違いの事業転換は単なる思いつきではなかった事が、現在のオリンピアスポーツクラブの飛躍に裏付けられている。
森 純孝(もりすみたか)氏 プロフィール
昭和18年2月三重県四日市市生まれ。昭和40年大学卒業後、森欽窯業株式会社入社。昭和52年代表取締役に就任。昭和64年3月森欽窯業全額出資によりオリンピアスポーツクラブ開設、理事長に就任。