【取材/2014年】
日本で初めてステンレスのグレーチング(側溝の蓋)を製造するなど、アイデアと確かな技術力で事業を拡大。「伸ばせ技術 延ばすな納期」をモットーに時代のニーズに合ったオンリーワン商品の開発に力を入れているホクセイ株式会社。桑名から全国へと活躍の場を広げる同社の代表取締役社長・山下三男氏に、現在に至るまでのお話を伺った。
「社長になる!」故郷を離れて集団就職
山下は昭和19年、長崎県西海市に生まれる。三男で末っ子、町内で知らない人はいないほどのやんちゃ坊主だった。
「今でも姉に言われるけど、幼い俺の手を繋いで近所を歩いていると、周りの子供が皆泣く。不思議に思っていたら、俺が歩きながら空いている方の手で子供たちをぽこぽこ殴っていたらしい。『もう何ともならんかった』と嘆いていた」。
幼稚園からずっとガキ大将だった。中学時には、登校前、自宅玄関に子分が並んで待っていた。4歳で父が他界。女手一つで育ててくれた母が山下の将来を案じ、中学卒業と同時に、3歳上の次兄のいる桑名への集団就職を勧めた。
「島を出る時、子供心に『絶対社長になるぞ、故郷に錦を飾るんや。おふくろを喜ばせるんや』と思った。まあ、何の社長かはわからなかったんだけど(笑)」。
兄の紹介で、桑名市の東亜機工商会(現・株式会社東亜機工)に就職した。頼りの次兄は仕事で刈谷市に行ってしまい、当時15歳の山下にとって、知らない土地での暮らしは辛いことも多かった。
「当時、九州から桑名までは電車で24時間。今でいう外国と一緒で、偏見もあった。何かというと『ほら九州の人間は……』と言われたよ」。
人前では強がっていても、夜には布団の中で故郷を思い出して泣いたこともあった。
「親父さん」にほれ込んだ修業時代
就職先の東亜機工商会は、当時従業員が2、3人の工具屋。当初はアルバイトのつもりで入社したのだが、同社社長の水谷タダオ氏に付いて経営のイロハを学ぶことになる。
「親父さんはすごく魅力のある人で、仲間内では『商売の神様』と呼ばれていた。ある日、俺が取引先で大手商社ともめた時、怒った商社側が『お前の会社潰したる!社長出て来い!』という話になって、社長を連れてあやまりに行ったんだ。そうしたら社長は話を丸く収めるだけでなく、その商社の代理店になる契約まで取り付けた。かんかんに怒っていた担当者が逆に『うちの商品を売ってください』と言う話になったんだよ。どういう人なんやこの人は?って驚いたね。他にもこういう話の枚挙に暇がないくらいすごい人だった。当時イケイケの若衆だったけど、社長のことは心底、尊敬してついていきましたね」。
住み込みだった山下は、自然と社長と行動を共にした。仕事後、夕食を一緒に取り、その後、会社に戻る社長に同行し、社長が仕事する傍らで、一日の仕事の反省などを話しながら社長の仕事の術を盗んだ。
独立、創業。念願の社長に
同社に勤めて10年。社長の仲人で結婚もした。一通りの仕事も覚え、既に担当部署の売り上げの半分を一人で売るまでになっていた。山下は独立を決意するようになった。
「早く社長になりたいもんだから無鉄砲だったよね。独立はいいけど何をしようか?と。同業の工具屋はできない。お世話になった親父さんに恩をあだで返すことになるからね」。
東亜機工社長からはのれん分けの話もあったが、仕事で興味を持つようになったステンレスの溶接を始めることに決めた。
しかしステンレスの加工は技術がないと難しい。独立後、勉強のため四日市の小さな工場に下請けに入った。
「社長は職人だったから、現場でステンレスの加工を担当。俺が営業担当で注文取ったり、見積もり出したり、実質的な社長業のようなことをしていたね」。
注文はどんどん増えていった。忙しくなると山下も溶接を手伝った。自然とステンレスの加工の技術が身についた。
2年後、体を壊して仕事ができなくなった社長から事業を引き継ぎ、自宅のあった桑名でホクセイを創業した。
創業したものの従業員は他におらず、自社工場を建てる資金はなかった。市内に小さな貸工場を借り、妻と二人三脚の経営が始まった。
当時、桑名で盛んだった鉄のグレーチング製造をステンレスでできないか?と思い立った。機械を買う資金はないため、機械も全て自分で手作りした。絵を描き寸法を出して組み立てたり、既存のステンレス用のプレスをグレーチング用に改造したり、これまで培った技術力を活かして取り組んだ。苦労の末、日本で初めてステンレスのグレーチングの製造に成功した。
しかし苦労の末、開発したステンレスのグレーチングは、全く売れなかった。当時、ステンレスは食器などには使用されていたが、建築資材としてはまだ珍しく、コストも鉄製グレーチングの4倍だった。
「どんなにいい製品でも時流に乗っていないと全く売れない。『こんな高いステンレスみたいなものを足で踏めるか』と言われたこともあった」。
「メンテナンスが要らない」「きれいで長持ちする」とステンレスグレーチングの利点を説き地道に営業をする一方で、他の企業の下請けなどでやり繰りしながら、細々と事業を続けた。妻と、時には小学生になっていた娘にも手伝ってもらった。
痛ましい事故を契機に、日本中の学校分のグレーチング注文が…
全く商売にならなかったステンレスグレーチングだったが「絶対に市場がある、ステンレスグレーチングでなければいけないというものがあるはずだ」と信じ続けて7年。思わぬところから転機は訪れた。
その年の夏、東京と津の小学校プールで小学生が排水溝に引き込まれ死亡するという痛ましい事故が相次いだ。いずれもプールの底に設置していた鋳物のグレーチングが経年劣化により錆びて割れていたことが原因だった。
大変な社会問題になり、文部省がプールの排水蓋は割れるものはだめだと通達を出した。品物は指定していないけれども、錆びずに割れないものと言ったらステンレスしかない。そして、作っていたのは全国でホクセイだけだった。日本中の学校分のステンレスグレーチング注文が入ってきた。事業は一変した。
当然、家族3人では足りなくなり、従業員を雇い、機械を購入した。定時の操業が朝8時から夜中の12時、残業をしたら早朝の3時まで、という日が続いた。工場内に段ボールで囲った一角を設け、そこに畳と布団を持ち込み子供を寝かした。昼夜を問わず製造しても間に合わず、工場の外にはグレーチングの出来上がりを待つ問屋の列ができた。
多忙を極めたが「もう製造が間に合わないとギブアップすれば、問屋はどこかから競争相手を見つけてくる。彼らが欲しいと言った分を作って出せば競争相手は出てこない。だから夜通し作ったよね」。
「故郷に錦を……」の思い。母の他界
ステンレスグレーチングは建築資材として認知されるようになり、事業も軌道に乗った。注文に応えるうちに、営業所も仙台、東京、名古屋、大阪、福岡と拡大。最盛期は従業員が100人以上。特許も120ほど取った。
「事業に悔いはないし、嫁さんにも感謝している」というが、たた一つの心残りは母親のことだと言う。桑名で就職し、いつか母親を呼び寄せようと必死で働いた。就職して数年、やっと落ち着いて、母親と住むマンションまで決めた矢先、母のガンが発覚。手術した翌日に亡くなった。
「故郷に錦を飾りたい。社長になって親孝行したいと思っていたけれども、『親孝行したいときには親はなし』だったよ」。
ガキ大将だった山下の将来を案じていた母は、真面目に働いている姿を見てほっとしていたという。
「少しは安心させてあげられたかな」。
畦道商法でオンリーワンに「伸ばせ技術 延ばすな納期」
事業の成功を「たまたま運が来ただけ」と謙遜する山下だが、リーマンショックや公共建設工事の激減など危機も乗り越えてきた経営の秘訣を「象の通る道は通らなかったこと」と分析する。「象(大企業)が参入してこないような畦道を歩いて来た」という畦道商法。大企業が自社製品などを手広く手掛ける昨今、それまで下請けを担ってきた企業が仕事を失うケースが後を絶たないが、ホクセイは先見性と技術力を活かして、大手が参入しないオンリーワン商品を作ることに力を注ぐ。
ホクセイ株式会社の社訓は「伸ばせ技術、延ばすな納期」。ライバル企業をつくらず、オンリーワンであり続けるためのモットーだ。
最近では銅の抗菌力に注目した商品や、プラスチックとステンレスを使い軽量化と耐久性の両方を兼ね備えた商品なども開発している。
ホクセイ株式会社
〒511-0836 三重県桑名市大字江場3丁目118番地-26
TEL / 059-421-9660
WebSite / http://hokusei-m.co.jp/