三重の企業人たち

株式会社 堀製麺

堀製麺

老舗食品メーカーに訪れた売り上げ半減の危機。 それを乗り切るために手がけたのが、新商品の開発だった。納入先の要求を蹴って、オリジナルの麺に活路を見い出した。ビジネスを自分たちの手に取り戻すために。

創業者の父が急死。母が必死で働いて家業を守る

 堀製麺所の創業は昭和25年。現社長・堀哲次の父親の堀哲(さとし)が立ち上げた。旧制中学を卒業した哲は『食に関わる商売がしたい』と思っていた頃、町内にあった製粉機を譲ってもらったのが始まりだった。
 設立当初は妻の淳子と近所のパートの女性たちが働く小さな製麺所だった。しかし昭和40年代になると、各地に次々とスーパーマーケットができ、堀製麺所は麺をスーパーマーケットにも卸すようになった。高度経済成長の波に乗り、商品は飛ぶように売れた。業績は右肩上がりに伸びていった。
 しかし昭和46年、哲が42歳で体調を崩し急死した。哲次が10歳の時だ。堀製麺所は哲次の母の淳子が継いだ。淳子は休みなしで懸命に働き家業を守った。その後、商売が大きくなると代表者が女性では何かと不都合だということで、哲次の姉の夫の中村健が堀製麺所を継いだ。昭和56年、堀製麺所は有限会社堀製麺となり、中村が社長に就任。この頃、哲次も滋賀の製麺会社での2年間の修行を終え、堀製麺に入社した。
 そして時代は平成に。景気の低迷もあって、スーパーの安売り合戦が激化。機械化により大量生産が可能になったこともあり、日本中の食品メーカーが商品を大量に作り驚くほど安い値段でスーパーに卸すことになった。堀製麺もそんな時代のニーズに対応するため機械化をすすめた。平成10年には工場を新築移転し、衛生面を重視した体制を整えた。

哲次が社長に就任してすぐ、会社存亡の危機が訪れた

 平成18年、中村が会長になり、哲次が株式会社堀製麺の社長に就任。時を同じくして、ガソリンや重油、小麦粉が同時に値上がりした。さらに追い討ちをかけるように、商品の半分を卸していた某スーパーが5%の値引きを要求してきたのだ。このままでは作れば作るほど赤字になる。かといって売り上げが半分になっては会社はやっていけない。堀はスーパーに何度か足を運んで頭を下げたが、値下げを撤回することはできなかった。堀は悩んだ末、そのスーパーへの卸しをやめることを決めた。
「以前から『このまま安い麺を作り続けても将来性がない。価格競争に巻き込まれないためにはオリジナルの商品を開発して行かなければならない』と考えてました。社員さんの労働時間も長かったですしね。売り上げが半分になるのは厳しかったけど、踏ん切りをつけるいい機会かなとも思いました」。
 売り上げが半分になるため、従業員も半分にしなければならなかった。当時の社員は15名、パートは20数名。堀は従業員と何度も話し合い、結局社員を9名に減らし、パートは勤務時間を半分にしてもらった。苦渋のリストラだった。そして平成19年9月、堀製麺の麺はスーパーの店頭から姿を消した。
「その後、ありがたいことにたくさんの方から電話をもらいました。『堀さんとこの麺、どこに売ってるんですか?』って。ウチの商品のファンの方がたくさんいるんだなと思いました。それで、近くの人だけでもウチの商品が買えるようにできないか?と考えて、工場直販を始めたんです」。
 平成19年10月、堀製麺は「工場直販」を開始した。月一回、土曜日の午前中にお客さんに直接工場に来てもらい、商品の販売とオリジナル麺の無料試食を行った。工場直販は、すぐに地元の人たちとのふれあいの場となった。
「お客様の声が直接聞ける工場直販は、商品開発をするうえでとても参考になりました。中でも『はなまるうどん』は玉うどんなのですが、そのまま冷凍が可能な商品で、一人で数十個購入するお客様も多く、品切れすることもしょっちゅうでした。美味しいものを当たり前に作り、お客様から『美味しかったよ』という声を直接聞けた時は、とても誇らしい気分になれましたね」。

オリジナルの麺の開発に着手

 さらに堀は、様々な食材を麺に練りこんだ商品の開発に力を入れた。
「かぼちゃ、ほうれん草、コーン、菰野のまこもなど、ありとあらゆる物を練りこみました(笑)。他に季節に合わせて4月なら桜にちなんで桜パウダー粉を混ぜた桜色の麺、5月はヨモギ、6月は伊勢茶とか」。
 堀はそれらの麺を日持ちがするように冷凍にして販売した。オリジナリティ溢れる麺を作る堀製麺の存在は、ネット通じて徐々に知られるようになっていった。日進市からプチベール(キャベツの芽)、京都からみぶな、丹波から黒まめ、滋賀から黒影米等、各地から『地元の特産品を練りこんだ麺を作って欲しい』という依頼も増えてきた。
「冷凍麺でこういう特殊な麺をやっているところは少ないですから、ウチに依頼が来るんでしょうね。実際、色や香りを出すのは大変なんです。それに特殊な麺は現場が嫌うんですよ。もともと麺は白ですよね。でも同じラインで色のつく麺をやると、次に普通の麺を作った時に色や異物が混入する可能性があるんです。でも、苦労も多いけどやりがいもあります。以前は大量生産で『とりあえずたくさん作ったら売れる』みたいなとこがあったんですが、今はみんなで知恵を出し合って作るようになりました」。

他社がやらない事をやる

 堀はスーパーへの卸しをやめたことを「今になってみると良かったと思う」と言う。
「製造メーカーは、売ってくれるとこがあったらそこにお願いして売ってもらうのが一番楽です。でも、それでは価格決定権が持てませんし、価格競争に巻き込まれたら中小企業は大企業には勝てません。そんなやり方ではどこかで行き詰ってしまいます。だからニッチ(隙間)に入り込み、なるべく他社がやらないことに挑戦していかなければいけないと思います」。
 会社存亡の危機をなんとか乗り切った堀製麺。それが可能だったのは、父、母、義兄たちが築いてくれた知名度のおかげだと堀は言う。
「工場直販を始めた時、堀製麺の麺を求めてわざわざ工場に買いに来てくれる人たちがいたのは、本当にありがたかったですね。だからなおさら『良い商品を作らなければ』と強く思います」。

株式会社堀製麺

四日市市北小松町1746番地の2
TEL.059-321-0655

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