What’s New 三重の歴史

四日市発日本行き 都市開発歴史物語~発展の礎築く関西鉄道

寄稿 / 元四日市市職員・日本考古学協会会員 北野 誠

関西鉄道と書いて「かんさい」鉄道ではなく「かんせい」鉄道と読むのが正しく、現在のJR「かんせい」本線でなく「かんさい」本線の前身であるので、日本語は難しいというか、ややこしい。我が国の鉄道黎明期に誕生した関西鉄道は「四日市発日本行き」というタイトルに相応しい鉄道史に遺る歴史を秘めている。

官設鉄道の建設

♪汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として~

 明治五年九月十二日に新橋―横浜間の全通で始まった我が国の鉄道も、明治政府が鉄道建設を決定した際にはその予定路線としては、東京―京都を結ぶ幹線に加え、東京―横浜間、琵琶湖沿岸―敦賀間、京都―神戸間の一幹線・三支線の敷設が計画されていた。
大阪―神戸間の営業開始は、明治七年五月十一日からで、京都―大阪間の営業開始は、同十年二月六日であり、当初の予定路線のうちこの頃までに開業したのは、わずかに東京―横浜間と京都―神戸間に過ぎなかった。
 東西両京の東京と京都を結ぶ幹線はどこを走るのか、東海道沿いを通るのか、中山道沿いを通るのか、今だ未定であった。
そして、明治政府は、明治十六年八月になって東西を結ぶ幹線を中山道沿いに決定したが、同十九年七月には再び東海道沿いに路線変更
がなされた。
 明治十九年七月十九日付の『官報』第九百捨四号の、内閣総理大臣 伯爵伊藤博文の「閣令」第二十四号が東海道沿いに路線変更したことを伝える。
建設費用に加え、営業収益を考えてのことと思われるが、当初の中山道案で敷設をみた関ヶ原―大垣間は、そのまま幹線鉄道に組み込まれたことから、東京から名古屋までは東海道沿いに、名古屋から京都へは中山道沿いという、名古屋以西は東海道沿いを通らない幹線鉄道ができてしまった。
 しかしながら、この幹線鉄道は東海道線と命名され、昭和三十九年十月一日に同じルートで営業運転を開始した新幹線までもが、東海道新幹線と名付けられて今日に至っている。

関西鉄道の誕生

 誰もが通るものと信じて疑わず期待していたが、まさかの予想外の結果となり、三重県と滋賀県では「官がダメなら民で」と名古屋―京都間を連絡する私設鉄道の建設運動が起こった。
 三重県においては、四日市を中心として桑名郡桑名舩場町の諸戸清六・員弁郡北大社村の木村誓太郎によって、滋賀県でも大同小異の計画であり、石井邦猷三重県知事と中井 弘滋賀県知事が協議の結果、両者競願せずに一本化することに話がまとまった。
 これより先、四日市では四日市港の修築に尽力した稲葉三右衛門らによって、明治十六年五月に鉄道による四日市港と敦賀港とを結ぶ勢江鉄道の敷設が請願された。
 また、この関ケ原―四日市間の官設鉄道の請願とは別に、翌十七年四月には前述の諸戸清六・木村誓太郎・稲葉三右衛門をはじめ、伊藤小左衛門・伊藤傅七・山中傅四郎・九鬼紋七・三輪猶作など五十名の発起人によって、四日市―垂井間の濃勢鉄道という私設鉄道も計画されたが、認められずに幻に終わっている。この五十名に及ぶ発起人の中には、明治の実業界を牽引した渋澤栄一や大倉喜八郎・藤田傅三郎・益田 孝などの名もみられる。
 そして、明治二十年三月三十日付で、先の諸戸清六や滋賀県神崎郡能登川村の阿部市郎兵衛(濃勢鉄道設立の発起人のひとり)をはじめ、東京在住の彦根藩主井伊大老の長男・井伊直憲ら十一名を発起人として、関西鉄道の会社創立が出願された。
 明治政府が敷設した官設鉄道に対し、民間会社が敷設した鉄道は私設鉄道と呼ばれた。当時、鉄道会社を経営するには、私設鉄道条例(明治二十年五月十八日 刺令第十二号)または軟道条例(明治二十三年八月 法律第七十一号)により、免許(または特許)が必要であって、申請は本社を設置する予定地の県庁を経由して担当大臣宛に提出するものとされていた。
 関西鉄道の会社創立出願には、大津―四日市間の鉄道を敷設し、将来は四日市から桑名を経て熱田(名古屋)に達する路線、伏見(京都)・奈良を経て大阪に達する路線、京都から宮津に至る路線などを内容とした計画があった。
 この出願に工部省鉄道局は、四日市に至る路線の起点を官設の東海道線と接続する草津付近とすることや、一部競願の大阪鉄道の発起人との調整などの条件を付け、再度の出願を指令した。
 この指令を受けて、明治二十一年一月二十三日に再び草津―四日市間、四日市―桑名間、河原田―津間などの鉄道敷設を内容とする内閣総理大臣 伯爵伊藤博文宛の「関西鉄道会社設立并起業ノ儀ニ付請願」を、関西鉄道会社創立委員総代木村誓太郎・谷元道之の連名で提出し、同年三月一日に私設鉄道条例の規定に基き正式に免許が下付された。

初代社長に前島 密

 資本金三百万円で誕生する関西鉄道は、阿瀬知川橋梁の北側に本社事務所を設け、近代日本郵便の父として一円切手に今も肖像画が遺る前島 密を初代社長に迎え、役員には諸戸清六・木村誓太郎・九鬼紋七・三輪猶作をはじめ、高田義助・馬場新三・弘世助三郎らの三重県や滋賀県を中心とした有力者が名を連ねている。
 前島 密の事歴を後世に残すための『鴻爪痕』(大正九年四月二十七日発行)によると、明治二十年五月に「関西鉄道株式会社々長となる」とあり、さらに翌二十一年十一月二十日に「任逓信次官叙勅任一等賜下級俸」と記されていることから、社長の職は一年半ほどの期間であったと思われる。

私設鉄道に終止符

 敷設工事は明治二十一年八月に着手し、草津―四日市間のうち、草津―三雲間が翌二十二年十二月十五日に開業、その後、二十三年二月十九日に三雲―柘植間、同年十二月二十五日には残りの柘植―四日市間の区間が完成、待望の全線開通となった。
 そして、明治二十七年七月五日には、四日市―桑名間が開業し、翌二十八年五月二十四日には名古屋―前ヶ須(弥富)間が竣工、同年十一月七日の桑名―弥富間の開業によって繋がり、草津―名古屋間の開通をみたのである。
当初の計画で支線とした河原田―津間は、明治二十三年八月に亀山―津間に変更申請の上、許可を得て敷設工事に着手し、翌二十四年八月二十一日に亀山―一身田間を開通させ、同年十一月一日に一身田―津間を開業している。
 関西鉄道はその後、浪速鉄道・城河鉄道・大阪鉄道・奈良鉄道・紀和鉄道・南和鉄道などの鉄道会社を合併することで、その路線を大幅に広げていった。現在の東海旅客鉄道株式会社(JR東海)・西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)が保有・経営する関西本線・草津線・片町線・紀勢本線・大阪環状線・和歌山線・奈良線・桜井線などの前身である。
しかし、全国的な鉄道網を官設鉄道に一元化するため、私設鉄道を国有化することを定めた鉄道国有法(明治三十九年三月三十一日 法律第十七号)の適用を受け、翌四十年十月一日に国有化され、会社創立からわずか二十年にも満たない私設鉄道の歴史に終止符を打つことになったが、関西鉄道は「日本鉄道・山陽鉄道・九州鉄道のような公的援助を受けず、純然と民間資本のみで誕生し、発展した点で注目すべき私鉄であった」と言われている。

島 安次郎の活躍

 明治二十一年七月には、本社事務所に続いて車両の補修・整備を主な業務とする整備工場が設置されたが、整備工場は四日市駅の東側から築港付近まで開削したいわゆる「関西運河」沿いに建てられて、当時、最も近代的な機械工場として全国にその名が知れわたり、国有化後も名古屋に移転するまでは操業を続け、近代四日市の鉄工業・機械工業の発展に大きく寄与したという。
 この整備工場に常勤し、鉄道の近代化、のちに狭軌の鉄道から広軌の鉄道を構想し、今日の新幹線の鉄道技術の開発に挑んだのが気車課長・島 安次郎である。
島 安次郎は、明治三年八月七日に和歌山市北町で安政年間の創業である薬種問屋「島喜」の四人兄妹の次男として生まれ、同二十七年七月に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業、関西鉄道では高性能機関車「早風」を走らせてスピードアップを図り、客車の等級別色帯や照明のピンチ瓦斯灯の導入などで旅客サービスの改善に努め、手腕を発揮した。
明治三十四年五月に逓信省鉄道局に移り、車両の全般を担当する工作課長の職にあった頃には、国有鉄道の軌間の広軌改築計画の技術的な検討が、鉄道院総裁・後藤新平のもとで島 安次郎を中心に進められていった。
 鉄道院を退職後、島 安次郎は南満州鉄道株式会社理事や汽車製造株式会社社長となったが、昭和十四年七月十一日に鉄道省直轄の「幹線調査会」が発足すると、呼び戻されて委員長を命じられ、弾丸列車構想を推進するものの実現せず、昭和三十九年十月一日に営業運転を開始した東海道新幹線へと受け継がれていくのである。
島 安次郎が構想しながら実現しなかった広軌改築計画、いわゆる国際標準軌の夢は、JRの前身の日本国有鉄道の技師長として父の遺志を継いだ長男・島 秀雄によって成し遂げられた。

本社がなぜ四日市に

 関西鉄道という社名は、創立当初に構想した路線網を視野に入れたものであるが、なぜその本社が四日市であったのか。
 名古屋以西で官設鉄道の予定路線から外れたのが主因であるが、それに加えて伊勢湾で中部地方随一の四日市港を擁する港湾都市であったからであろう。
 四日市港は、明治二十二年七月三十一日に特別輸出港の指定、同三十年六月二十六日に開港(特別輸出入港)の指定を受けたが、関税法の制定によって従来の制度は廃止され、三十二年八月四日に改めて「開港」の指定を受け、名古屋港よりも早く、文字どおり伊勢湾で唯一の国際貿易港の第一歩を印すことになった。
 我が国の初期の鉄道が海運との強い結びつきを示すことは、最初の官設鉄道の新橋―横浜間、次いで大阪―神戸間はもとより、日本海側の金ケ崎(現在の敦賀港)―長浜間も早くから計画立案されていることでわかる。
 許可されず幻に終わったが、日本列島を横断して四日市港と敦賀港を結ぶという、海運を重視した勢江鉄道や濃勢鉄道の計画をみても明らかである。

経済発展支えた専用線

 関西鉄道の開通は、都市形成の一翼を担い、発展に大きな影響を与えたといっても過言ではない。
 その後の鉄道だけをみても、特殊狭軌の三重軌道(現在の四日市あすなろう鉄道内部・八王子線)や四日市鉄道(現在の近畿日本鉄道湯の山線)をはじめ、伊勢電気鉄道(現在の近畿日本鉄道名古屋線)・三岐鉄道三岐線が、直結するように開通していった。
 そして、四日市港を核とする臨海工業地帯では、貨物輸送専門の「専用線」が工場間を縦横無尽に走る「もうひとつの鉄道王国」を形作り、今も現役で運行を続ける車両がその残照を物語る。
 専用線の基点は、関西鉄道が明治二十三年十二月二十五日に、柘植駅から延伸の際に終着駅として開業した四日市駅、同じく四日市―桑名課間の延伸時の同二十七年七月五日に開業した富田駅、関西本線の貨物支線の専用駅で、大正九年十二月二十一日に開業した旧四日市港駅、昭和三年七月一日の日永信号場の開設から、同三十八年十月一日に駅に昇格した南四日市駅、昭和十九年六月一日に貨物支線の四日市―塩浜間の開通に伴い開業した塩浜駅と、私鉄で唯一の近畿日本鉄道名古屋線塩浜駅があり、戦後の最盛期には三十の企業が敷設していた。
 そのうちのひとつ、石原産業専用線は、貨物以外は輸送できない専用線に対し、貨物以外にも特定人(従業員など)の輸送ができる四日市地域唯一の「専用鉄道」として有名であった。
 日本国有鉄道から払い下げを受けて活躍した、明治のドイツ製の蒸気機関車B6「2412」が名古屋市科学館に寄贈され、河村たかし市長の「名古屋SL博物館」構想による復活運転がなるかどうか、注目を集めている。
 専用線は現在、四日市駅のコスモ石油専用線、国指定重要文化財の末広橋梁(旧四日市港駅鉄道橋)を渡る太平洋セメント専用線、南四日市駅のJSR(旧日本合成ゴム)専用線、塩浜駅の昭和四日市石油専用線の四線が、トラック輸送に押されながらも運行を続け、その貨物列車の勇姿に鉄道ファンがカメラを向ける。

 

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