寄稿 / 稲垣勝義氏
はじめに
いなべ市大安町片樋に、通称「まんぼ」と呼ばれる地下水集水施設がある。地下水を集め、田に水を取り入れるために江戸時代に掘られた灌漑施設である。この「まんぼ」という言葉はどこからきているのであろうか。戦国期末頃よりいなべ市の治田地域の山には銀・銅を産出した治田鉱山があり、鉱石を採掘するために掘った坑道を「間歩(まぶ)」と言い、この技術が、灌漑用水施設を作るのに応用されて集水施設が作られた。この「間歩」が「まんぼ」の言葉の由来とされている。また、いなべ市では毎年「間歩まつり」という祭りが執り行われている。
治田鉱山は、藤原岳と竜ケ岳の二つの山に挟まれ、西は滋賀県の君ヶ畑から、東は青川と多志田川の上流域に広がる鉱山であった。現在の三重県いなべ市北勢町、滋賀県東近江市君ヶ畑の地域である。当時の治田郷は、東村・中山村・別名村・新貝村・麓村・垣内村・奥村・新町村の8ヵ村により形成されていた。新町村に陣屋(役人詰所)が置かれていたため、この地域の多志田山、南河内谷一帯が治田鉱山と呼ばれるようになった。この治田鉱山の様子をみてみよう。
Ⅰ.治田鉱山の産出量と経営形態
治田銀銅山は往古より繁昌したと伝えられるものの正確な記録は無く、詳しい事は知られていない。銀銅が多く産出された時期は17世紀初期の寛永時代、17世紀後期の元禄時代、18世紀中期の寛保~延享時代の三期間である。元禄年代の銀銅産出量は、宝永元年(1704)に東村庄屋の九郎右衛門が鉱山勘定覚書を残しており、注目に値するのは元禄元年(1688)から8年間稼行した藤井太兵衛(大坂北久宝町)の元禄3年の出来高銅で約202t(53,781貫800匁)に達している事である。この産出量は当時の諸国銅山中でも屈指の量であり、全国規模の産出量を誇る鉱山であったことがうかがえる。
宝永元年以降、鉱山の経営は治田郷村々の請負山になっていた。宝永7年(1710)桑名藩主松平定重(越中守)が所替えの機会に、治田近郊桑名領の鉱山が代官支配となり、代官の元で治田郷惣百姓が鉱山請負の出来ることを願い出ている。治田鉱山で製錬された荒銅(粗銅)は陸路にて伏見まで運ばれ、伏見から船積みして大坂まで下り、大坂の銅問屋、銅吹屋へ送られた。寛保3年(1743)正月~翌4年正月までの、伏見で船積みした明細があり、13ヵ月間の合計は約234.36tを船積みしている。明和3(1766)年には大坂過書町に長崎銅会所が銅座に定められて、諸国の荒銅はここに買集めて糺吹(産出した鉱石の一部を製錬し鉱石の品位を決める)を行ない査定が行われた。
安永元年(1772)年以降、幕府の銅山開発増産政策下で、南河内山・多志田山の問掘りは続けられてはいるが、銀銅とも産出はきわめて少なく、そのうえ採掘可能な間歩は狭くなり、多量の湧水で排水が困難になって、水抜坑を掘る資金も困窮して鉱山は次第に衰微していった。その後は、治田郷請負山を民間の稼行者が治田郷へ願い出て請負う形態をとり、治田郷の代表者である庄屋が稼行人と応対した。山請負庄屋は新町村庄屋2人、別名村庄屋1人、他の6ヵ村から1人ずつ月替わりで、計4人で担当した。
享保5年(1720)から、江戸や京都、他諸国の民間人が稼行して鉱山経営を行ったが、元文4年(1739)以降は、桑名や菰野、治田郷の地元の人々も鉱山経営に関わっている
Ⅱ.鉱山請負の手続き手順と証文
民間の稼行者が鉱山の問掘を願い出る場合の手続きは、問掘(試掘)願書を治田郷山請庄屋中宛で提出し、庄屋・年寄が諸判を加え、新町村にある四日市陣屋出役所銀銅山の山掛役人へ届ける。つぎに同役人が願書を四日市の陣屋(役所)へ取次ぎ、代官手代が許可の裏書をすませ、逆の順序で稼行者に戻される。このような手続きを踏むことにより、採掘が許された。このような稼行の形態は他諸国の銀銅山ではあまり見られぬ特異な形であった。
次の史料は享保5年(1720)3月に江戸の町人、伏見屋市郎左衛門ら他の者4名が治田郷銀山銅山の問掘にあたり、治田郷八か村との間で取り交わした証文の控である。民間の町人が問掘を行う際の問掘り期間、運上金、治田郷に対し守るべき約束事などを箇条書きし提出したものである。この史料はその後の町人請負人が提出する定書の雛型になった証文である。内容を見てみよう。
一、銀銅山の問掘運上については、今年から5ヵ年間、1ヵ年に正金2両2分2朱を必ず上納する。
一、山へ用事で、四日市の役人が治田へ来る時、駕籠人馬は私共(鉱山経営者)より指し出す。他のどんな諸入用も私共から出す。
一、役人が用事で山へ通う道に悪路があれば、私共で修繕する。
一、山に人足が必要であれば、村は構う事無く、私どもで勤める。
一、山にいる外財(鉱山労働者)達に、村に対して我儘不作法はさせない。
一、「矢木」(工事用の矢板)、「きりばり」(抗木の伏木)、「銅ふすべ木」(焼木のことで柴、薪の意)、「薪」等は山師(鉱山経営者)の方では勝手に伐採せず、治田郷の百姓から時価相場で買い取る。
一、治田郷の庄屋達が寄合など用事で山へ来る時の交通費、食事代等は私共で支払う。
一、鉱山経営者から治田郷への支払は、すべて現金で支払う。
一、是迄通り、治田郷庄屋中の請負は、新町村2人、別名村1人、奥村・麓村・東村・中山村・新貝村の6ヵ村から月替わりで1人勤め、私達や外財掘子(抗夫)への用事の取次をしてもらう。
一、是迄の通り、袴代(役代)として1人1ヵ年につき金5両ずつ、合計20両を毎年7月中に渡す。
治田郷の庄屋中経由で問掘願いを代官所へ提出して許可が下りると、以上のような定書証文を庄屋中へ提出した。治田郷の村々には一切迷惑をかけることなく、また鉱山で使用する材木等は村から買入れて村が潤うように対処するといったように、治田郷に対して様々な配慮がなされている。
Ⅲ.鉱山の様相と治田郷
1.治田郷新町村の様子
新町村には、江戸初期より銀山役所が置かれ、幕府から銀山奉行が派遣されて駐在していた。摂津国多田鉱山や他諸国から、鉱山に関わる人々で集落が形成され、現在の甘露寺や新町神社は鉱山関係者達により建立された。享保2年(1717)新町村には陣屋や役人屋敷が84軒在り、村へ出入りの諸商人達からは庭役と云う運上金(税金)を取り立て、代官へ支払う役割を担っていた。鉱山での資財、飯米、その他消費される物資は治田郷から購入して配給して治田郷を潤しており、新町村が鉱山の町であった事を示している。
2.鉱山内の様子
寛延元年(1748)に多志田山の山先(稼行者)、利左衛門の覚書には多志田の山の住居の様子が書かれている。鉱山内の様子をみてみよう。
間歩の近辺には役人や、鉱夫たちが暮らす建物が建っていた。この年の多志田山銀山には17軒の下財小屋(坑夫たちの住む小屋)が立ち、鉱山で働く坑夫達は、「銀堀」13人、「鋪手子」9人、「砕師」4人、粉鉱精錬技術を持つ「汰物師」3人、「吹大工」2人、「吹き手子」2人、「竈大工」2人、「竈手子」1人、「杣」5人、「明かり方」6人、「鋪役人」3人、「惣目付」1人、「中番役人」4人、「無役老人」1人、「子供」6人となっている。子供6人、老人1人を含め62人もの鉱山関係者が家族と共に生活していたようである。
また、「銀堀小屋」5軒、鉑石を砕くための「砕き小屋」2軒、簡易製錬所で灰吹小屋とも呼ばれる「床屋」1軒が在り、多志田では鉱石の製錬は主に現場で行っていたことがうかがえる。
3.治田郷の役割
元文4年(1739)になると、治田郷庄屋衆達の鉱山経営に及ぼす影響力が強まり、治田郷住民たちと鉱山との親密な関わりがうかがえる、定書証文にも治田郷の庄屋衆が関わる条項が付けられている。
一、問掘して鉱石が出れば問吹(試験のための精錬)し、銀銅は勿論、金鉄錫鉛が出ても報告し、改めを受けて帳面に記録し庄屋衆の指図を受ける。
一、採掘状況を月々庄屋衆の改めを請ける。
一、外財堀子が他領他村へ入り込まぬという庄屋衆の指示を受ける。
一、外財、日雇いの者たちの喧嘩口論博奕を一切取り締まり、遊女等を差置かない。
一、毎月貫目改めを受ける。
一、外財堀子が山方に居る間は寺請証文をとり、治田郷内の寺の門徒になる。
このように治田郷の庄屋衆が問掘の場所確認、間歩改め、採掘状況に多く関与する事になり庄屋衆の指示権限も強化された。
だがこの頃になると、以前ほど鉱石に当たらず、支払い猶予を願っており採掘量が少なかった様子である。(以前には山請庄屋衆へ、20両を渡していた)その後も問掘願が出され、試掘が続いているが出銅量は僅かであった。
おわりに
治田鉱山は寛永から元禄年代までの約70年間を最盛期とし、その後は衰退の一途をたどった。大正時代には明治期の実業家五代友厚の次女五代アイ(藍子)が稼業したが成果は出なかった。筆者は2016年に鉱山跡を訪ねてみたが、鉱山へ続く青川は、2008年の大水害の土石流で埋まってしまい、鉱山跡は壊滅的な被害を被っていた。途中の「日の岡稲荷(日丘稲荷)」周辺には鉱石の焼石らしきものが散見されて、かすかに鉱山の痕跡を残すだけであった。
【参考資料】
近藤杢『治田村誌』
北勢町町史編さん委員会『北勢町史』
小葉田淳『日本銅鉱業史の研究』
黒川静夫『伊勢治田銀銅山の今昔』