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四日市発日本行き 都市開発歴史物語~発展の礎築く関西鉄道 2

島 安次郎の活躍

 明治二十一年七月には、本社事務所に続いて車両の補修・整備を主な業務とする整備工場が設置されたが、整備工場は四日市駅の東側から築港付近まで開削したいわゆる「関西運河」沿いに建てられて、当時、最も近代的な機械工場として全国にその名が知れわたり、国有化後も名古屋に移転するまでは操業を続け、近代四日市の鉄工業・機械工業の発展に大きく寄与したという。
 この整備工場に常勤し、鉄道の近代化、のちに狭軌の鉄道から広軌の鉄道を構想し、今日の新幹線の鉄道技術の開発に挑んだのが気車課長・島 安次郎である。
島 安次郎は、明治三年八月七日に和歌山市北町で安政年間の創業である薬種問屋「島喜」の四人兄妹の次男として生まれ、同二十七年七月に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業、関西鉄道では高性能機関車「早風」を走らせてスピードアップを図り、客車の等級別色帯や照明のピンチ瓦斯灯の導入などで旅客サービスの改善に努め、手腕を発揮した。
明治三十四年五月に逓信省鉄道局に移り、車両の全般を担当する工作課長の職にあった頃には、国有鉄道の軌間の広軌改築計画の技術的な検討が、鉄道院総裁・後藤新平のもとで島 安次郎を中心に進められていった。
 鉄道院を退職後、島 安次郎は南満州鉄道株式会社理事や汽車製造株式会社社長となったが、昭和十四年七月十一日に鉄道省直轄の「幹線調査会」が発足すると、呼び戻されて委員長を命じられ、弾丸列車構想を推進するものの実現せず、昭和三十九年十月一日に営業運転を開始した東海道新幹線へと受け継がれていくのである。
島 安次郎が構想しながら実現しなかった広軌改築計画、いわゆる国際標準軌の夢は、JRの前身の日本国有鉄道の技師長として父の遺志を継いだ長男・島 秀雄によって成し遂げられた。

本社がなぜ四日市に

 関西鉄道という社名は、創立当初に構想した路線網を視野に入れたものであるが、なぜその本社が四日市であったのか。
 名古屋以西で官設鉄道の予定路線から外れたのが主因であるが、それに加えて伊勢湾で中部地方随一の四日市港を擁する港湾都市であったからであろう。
 四日市港は、明治二十二年七月三十一日に特別輸出港の指定、同三十年六月二十六日に開港(特別輸出入港)の指定を受けたが、関税法の制定によって従来の制度は廃止され、三十二年八月四日に改めて「開港」の指定を受け、名古屋港よりも早く、文字どおり伊勢湾で唯一の国際貿易港の第一歩を印すことになった。
 我が国の初期の鉄道が海運との強い結びつきを示すことは、最初の官設鉄道の新橋―横浜間、次いで大阪―神戸間はもとより、日本海側の金ケ崎(現在の敦賀港)―長浜間も早くから計画立案されていることでわかる。
 許可されず幻に終わったが、日本列島を横断して四日市港と敦賀港を結ぶという、海運を重視した勢江鉄道や濃勢鉄道の計画をみても明らかである。

経済発展支えた専用線

 関西鉄道の開通は、都市形成の一翼を担い、発展に大きな影響を与えたといっても過言ではない。
 その後の鉄道だけをみても、特殊狭軌の三重軌道(現在の四日市あすなろう鉄道内部・八王子線)や四日市鉄道(現在の近畿日本鉄道湯の山線)をはじめ、伊勢電気鉄道(現在の近畿日本鉄道名古屋線)・三岐鉄道三岐線が、直結するように開通していった。
 そして、四日市港を核とする臨海工業地帯では、貨物輸送専門の「専用線」が工場間を縦横無尽に走る「もうひとつの鉄道王国」を形作り、今も現役で運行を続ける車両がその残照を物語る。
 専用線の基点は、関西鉄道が明治二十三年十二月二十五日に、柘植駅から延伸の際に終着駅として開業した四日市駅、同じく四日市―桑名課間の延伸時の同二十七年七月五日に開業した富田駅、関西本線の貨物支線の専用駅で、大正九年十二月二十一日に開業した旧四日市港駅、昭和三年七月一日の日永信号場の開設から、同三十八年十月一日に駅に昇格した南四日市駅、昭和十九年六月一日に貨物支線の四日市―塩浜間の開通に伴い開業した塩浜駅と、私鉄で唯一の近畿日本鉄道名古屋線塩浜駅があり、戦後の最盛期には三十の企業が敷設していた。
 そのうちのひとつ、石原産業専用線は、貨物以外は輸送できない専用線に対し、貨物以外にも特定人(従業員など)の輸送ができる四日市地域唯一の「専用鉄道」として有名であった。
 日本国有鉄道から払い下げを受けて活躍した、明治のドイツ製の蒸気機関車B6「2412」が名古屋市科学館に寄贈され、河村たかし市長の「名古屋SL博物館」構想による復活運転がなるかどうか、注目を集めている。
 専用線は現在、四日市駅のコスモ石油専用線、国指定重要文化財の末広橋梁(旧四日市港駅鉄道橋)を渡る太平洋セメント専用線、南四日市駅のJSR(旧日本合成ゴム)専用線、塩浜駅の昭和四日市石油専用線の四線が、トラック輸送に押されながらも運行を続け、その貨物列車の勇姿に鉄道ファンがカメラを向ける。

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