What’s New 三重の歴史

続く鉄道の誕生と拡充

寄稿 / 元四日市市職員・日本考古学協会会員 北野 保

前号に記した関西鉄道は、平凡な一地方鉄道に留まらず“進取の気性に富む”鉄道会社で、「官を恃まず」よりも「官に挑む」というその姿勢は、官設鉄道の東海道線との名古屋―大阪間の運賃値下げによる熾烈な旅客獲得競争を繰り広げたことで有名である。
また、国有鉄道の路線に組み込まれたものの、島 安次郎や白石直治などの逸材を輩出し、我が国の鉄道史に功績を記すが、この地域のその後の陸上交通の発達にも大きな影響を与えている。
鉄道網の整備は、都市の発展に重要な位置を占めるもので全国各地に拡がり、なかでも軽便鉄道法(明治四十三年四月二十一日 法律第五十七号)の規定に基く軽便鉄道の敷設は、開業の特許資格や建設規模の大幅な緩和のため数多くの誕生をみた。
そして、以外にも三重県は、全国のうちでも多数の路線があり、かつて“軽便鉄道王国”を誇っていたと言われ、北勢鉄道・三重鉄道・養老鉄道・四日市鉄道・伊勢鉄道・伊賀鉄道・中勢鉄道・安濃鉄道・松阪軽便鉄道などがあった。

軽便でない?三重軌道

 軌間(レールの間隔)七百六十二ミリ。その幅わずか二フィート六インチから、「二ブロク」あるいはかつて「特殊狭軌」と称され、究極の現役ナローゲージ鉄道として全国的に名高い四日市あすなろう鉄道株式会社。
 軽便鉄道の代名詞のように言われる四日市あすなろう鉄道は、百十年前の最初の“出発進行”は軽便鉄道ではなかった-。
 歴史を辿ると、原点は三重軌道株式会社に行き着くが、三重軌道は『四郷ふるさと史話』によると「明治四十三年十二月に三重軽便鉄道会社を創設、明治四十四年十二月に三重軌道株式会社と改称認可され…」とあるが、監督官庁の鉄道院への「鉄道敷設特許願書」が提出されたのは、軽便鉄道法公布の半年前の同四十二年十月のことで、それは軌道条例(明治二十三年八月二十三日 法律第七十一号)の規定に基く“蒸気軌道”の許可申請であった。
 四郷村と四日市市とを結ぶ鉄道敷設計画は、明治四十一年頃にはかなり具体的になっていたことは『伊勢新聞』などで窺える。
伊藤昌太郎(後の第七世伊藤小左衛門)・伊藤六治郎・九鬼紋七・西口利三郎らが発起人とされ、明治四十三年十月十八日付で軌道敷設特許の下付を受け、同年十二月二十八日に三重軌道株式会社は正式に設立をみている。
 そして、明治四十四年四月から室山以東の建設工事に着手し、翌四十五年七月に室山―日永間が完成、一ヵ月後の大正元年八月には線路は西に延びて室山―八王子間が開通、同月十四日に八王子―日永間で営業運転が始まった。
 大正元年十月には日永―南浜田間、翌二年五月には南浜田―諏訪前間が相次いで開通、同四年十二月二十五日には待望の鉄道院(現在のJR関西本線)四日市駅西口まで乗り入れ、諏訪―四日市間を併走する四日市鉄道(現在の近鉄湯の山線)との合同駅舎・四日市市駅が設けられた。

三重軌道から三重鉄道に

 しかし、経営事情が良く無いために大正五年七月十九日に三重軌道は解散、同時に設立した三重鉄道株式会社に路線を譲渡し、同年十二月一日に軌道条例の規定に基く“軌道“から軽便鉄道法の規定に基く”軽便鉄道“に変更して経営の改善に努めている。
 三重鉄道は日永から分かれて鈴鹿郡井沢村(現在の鈴鹿市深溝町)までの鈴鹿新線(現在の内部線)の敷設免許を取得し、大正十一年一月に日永―小古曽間、同年六月二十一日に日永―内部間が開通したが、同十四年六月に敷設免許の失効に加えて財政的な問題もあって、内部から先の延長工事を断念してしまった。
昭和三年一月には諏訪前駅を廃止、同駅西方の四日市鉄道諏訪駅に統合、四日市市駅―諏訪駅間を廃止して路線跡地を伊勢電気鉄道に譲渡、同六年三月一日に四日市鉄道と合併、十九年二月十一日には戦時下の交通体制の整理統合という国策によって、三重鉄道は神都交通・北勢電気鉄道・松阪電気鉄道・志摩電気鉄道・三重乗合自動車・伊賀自動車の六社と合併して三重交通株式会社となった。
 その後、昭和三十九年二月一日に三重交通が鉄道事業を三重電気鉄道株式会社に分離譲渡し、さらに同四十年四月一日に近畿日本鉄道株式会社が三重電気鉄道を合併したため、路線は近鉄内部・八王子線となったが四十九年七月二十五日の集中豪雨による天白川の氾濫で堤防上の八王子線の線路が流失、五十一年四月に日永―西日野間は復活したものの、西日野―伊勢八王子間は廃線の憂き目となった。
 内部・八王子線の存続のため、四日市市と近畿日本鉄道が公有民営方式の四日市あすなろう鉄道を設立したのは平成二十六年三月二十七日のことであり、同年四月一日から営業運転を開始した。

開業当初は八王子村駅

 三重軌道の八王子の駅名は、八王子村駅であったという。なぜ、八王子村駅なのか。
 明治二十二年四月一日の市町村制の施行によって、東日野村・西日野村・室山村・八王子村の四村が合併して三重郡四郷村が発足しており、すでに八王子村は存在していない。八王子村駅の名称が伊勢八王子駅に改称されたのは、昭和の時代になってからである。

軌道から軽便への四日市鉄道

 最初は軌道条例の規定に基く軌道を目指しながら、軌道よりも軽便鉄道法の規定に基く軽便鉄道の有利さを認識し、軌道計画を取り止め軽便鉄道に切り替えて開業したのが四日市鉄道である。
 三重郡菰野村(当時)の伊藤新十郎・高田隆平・高田喜八、四日市市の九鬼紋七・三輪猶作・平野太七らの四日市軌道株式会社発起人による菰野村と四日市市を結ぶ軌道敷設特許願書は、三重軌道が同様の特許願書を提出したわずか二ヵ月後のことであり、明治四十二年十二月十六日とされる。
 しかし、鉄道院のいわゆる行政指導もあってか、その後の軽便鉄道法の公布により、改めて同法による軽便鉄道敷設免許願を明治四十三年八月五日付で提出し、それによると「…社名ヲ四日市鉄道株式会社ト変更ノ上、該線路ヲ軽便鉄道法ニ依リ…曩ニ提出ノ軌道条例ニ依ル願書ノ取消願ト共ニ…」という、有田義資三重県知事の進達副申もあり、同年十一月十七日付で敷設免許を取得、翌四十四年五月二十七日の会社創立総会で正式に設立をみている。
 建設工事は明治四十五年六月に湯ノ山神明橋―菰野間で着工されたが、二ヵ月たらずの大正元年八月十七日に菰野停車場で起工式がおこなわれ、同年十一月末に湯ノ山―金渓川間が竣工、翌二年六月一日に川島村(現在の伊勢川島)―湯ノ山(現在の湯の山温泉)間で開業に漕ぎ着けたが、さらに八月には川島村―松本村(現在の伊勢松本)間が竣工、東海三大祭りのひとつと言われた四日市の氏神である諏訪神社の祭礼の前日の九月二十四日に、諏訪―湯ノ山間が全線開通した。
 開業当初の駅は、諏訪・堀木・芝田・中川原・松本村・川島村・高角・櫻村・神森・宿野・菰野・中菰野・湯ノ山であったという。
 大正五年三月に諏訪からさらに東へ延長され、同月二十三日に四日市鉄道と三重軌道の合同駅である四日市市駅が完成、待望の関西本線四日市駅と連絡した。
 昭和二年十一月には、四日市市駅―諏訪駅間の線路を伊勢電気鉄道に明け渡すために廃止、これに伴い同四年一月三十日に伊勢電気鉄道・四日市鉄道・三重鉄道の三社合同の諏訪駅が設けられ、新しい始発駅となった。
 四日市鉄道は前述のとおり、昭和六年三月一日に三重鉄道と合併して三重鉄道、その後三重交通・三重電気鉄道を経て、同四十年四月一日に近畿日本鉄道と合併して今日に至っているが、三重電気鉄道であった三十九年三月二十三日には、軌間を七百六十二ミリから一挙に千四百三十五ミリに改軌している。
 これは、我が国における特殊狭軌から広軌(標準軌)への最も遅い、最後の改軌であるという。

もうひとつの伊勢電気鉄道

 伊勢電気鉄道の前身は、明治四十三年十月二十日に軽便鉄道敷設の免許を受け、翌四十四年十一月十日、津市に設立された資本金五十万円の伊勢鉄道である。
 設立発起人は津市の岡 半右衛門・直邨善五郎・小屋光雄・三井次郎・松本恒之助・玉井文次郎、四日市市の平野太七の七人で、その会社起業目論見書には「三重県津市四日市間ニ介在スル沿海一帯ノ地ハ、人口稠密産物豊饒ニシテ古來富有ヲ以テ称セラレタル所ナルモ今尚ホ交通機関ノ施設ナク殖産興業上障碍少カラズ、依テ此地区ノ発展ニ資スル為メ左ノ各項ニヨリテ軽便鉄道ヲ敷設セント欲ス(後略)」と記している。
 開業は、大正四年九月十日の一身田町(現在の高田本山)―白子間で、軌間は千六十七ミリの狭軌であったが、単線非電化の軽便鉄道とされていたという。
 その後、逐次路線を延長して、大正十三年四月三日までに津新地―四日市間が全通、翌十四年十二月二十日には伊勢若松―伊勢神戸(現在の鈴鹿市)が開業した。
 この時点で伊勢鉄道は、線路の全長は津新地―四日市間二十九キロと、伊勢若松―伊勢神戸間三・九キロに過ぎず、蒸気機関車七輌・客車十七輌・貨車三十三輌を保有する小さな地方鉄道であったが、大きく飛躍するのは「東海の飛将軍」と呼ばれた実業家・熊澤一衛が社長に就任してからである。
 熊澤一衛は、明治十年十一月一日に三重郡河原田村(当時)に生まれ、同三十九年九月に四日市製紙株式会社に入社し、四十五年一月に取締役となり、後に製紙王と言われた社長の大川平三郎の下で静岡電力株式会社や静岡鉄道株式会社の専務を努めたが、大正十四年十二月二十五日に義兄の高田隆平の死去に伴って四日市銀行(現在の三十三銀行)の頭取となり、翌十五年九月十一日に伊勢鉄道の社長に就任すると同時に社名を伊勢電気鉄道株式会社に改称し、わずか三ヵ月後の昭和元年十二月二十六日には津新地―四日市間の全線電化が完成、早くも蒸気機関から電車運転を開始している。
 次いで昭和四年一月三十日には四日市―桑名間の複線開業、同年五月五日には津市にあった本社を四日市市に移し、本社ビルの熊澤事務所が竣工、十月一日には桑名―揖斐間の養老電気鉄道の合併で路線を岐阜県まで拡げた。
 さらに翌五年四月一日には津新地―新松阪間の複線開業、同年十二月二十五日には新松阪―大神宮前間の複線開業と路線を延ばし、北は桑名から南は大神宮前まで八十二・九キロに及ぶ伊勢電気鉄道の本線には、ロマンスシートの特急「神路」「初日」が一日二往復、片道八十五分で運行された。
 しかし、この新線の建設工事の影響で経営事情が極端に悪化したため伊勢電気鉄道は、昭和十一年九月十五日に近畿日本鉄道の前身の参宮急行電鉄株式会社と合併、四半世紀、二十五年にわたる歴史を閉じることとなった。

三岐鉄道と近畿日本鉄道

 鉄道の誕生と拡充はその後も続き、セメント輸送の三岐鉄道株式会社、我が国最大の“民鉄”近畿日本鉄道株式会社が発足し、今日の鉄道網を形作っていく。
 三岐鉄道三岐線の旅客は、近鉄名古屋線富田駅で近鉄と接続し、貨物はJR関西本線富田駅で連絡して走り続けて九十年、国内唯一となった“セメント列車”は四日市港の国指定重要文化財・末広橋梁(旧四日市港駅鉄道橋)を渡る風物詩として有名である。
 また、平成十五年四月一日に近鉄から引き継いだ北勢線(桑名市の西桑名―いなべ市の阿下喜)は、四日市あすなろう鉄道と同じ“特殊狭軌”と呼ばれた七百六十二ミリで運行している。
 一方、近畿日本鉄道は、昭和十五年一月一日の参宮急行電鉄と関西急行電鉄の合併、同十九年六月一日の関西急行鉄道と南海鉄道の合併を経て設立された。発足時の営業キロは六百三十九・三キロで、我が国最大の路線延長を誇る民鉄の誕生となった。
 昭和三十一年九月二十三日に、名古屋線の路線変更、いわゆる短絡化で諏訪駅を廃止し、近畿日本四日市駅を開業、同四十五年三月一日には駅名冠称を「近畿日本」から「近鉄」に変更、「近鉄四日市」と改称された。
 これより先、昭和三十四年九月二十六日の伊勢湾台風は名古屋線の被害も甚大であったが、その復旧工事と同時に軌間拡幅工事を施し、これまでの狭軌の千六百七ミリを広軌へ(標準軌)の千四百三十五ミリに“禍を転じて福と成す”とし、同年十二月十二日にビスタカーによる名阪直通特急の営業運転を開始している。
 近畿日本鉄道は、大阪―奈良間を短距離路線の鉄道で結ぶため、明治四十三年九月十六日に設立された奈良軌道が源流である。

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