What’s New 三重の歴史

木曽三川の洪水対策と 宝暦治水

寄稿/稲垣勝義氏

桑名市域の木曽岬・長島町は木曽三川の大量の水と共に流れ込んだ土砂が寄り州を形成し、そこを開拓して人が住み着いた場所であり、輪中地帯と呼ばれている。この地域は豊富な水に恵まれ、さまざまな形で水と共に暮らしてきた土地であるが、毎年のように洪水の被害にみまわれた地域でもある。江戸時代には、度重なる洪水や、水害による農作物の不作で農民たちは困窮にあえぎ、繰り返し幕府に治水工事を請願するようになった。その対策として幕府が薩摩藩に命じた難工事が、18世紀半ばに行われた「宝暦治水」であり、薩摩藩士の多くの犠牲と、多額の工事費を費やして行われた。木曽三川の治水工事の歴史の中でも最大の難工事と言い伝えられる「宝暦治水」が歴史的にはどのような意義を持っているのか調べてみよう。

輪中の発達と洪水被害

 江戸時代中期以降に河口付近の輪中が急速に開発されるようになると、新田開発が河口付近の水を停留させ、中、上流域でも多くの洪水被害が発生するようになった。開発が洪水発生に大きな影響を与えていたのである。
 上流域の美濃国内の村々から桑名藩へ様々な訴えが出されるようになるが、木曽三川流域は、農州藩、尾張藩、長嶋藩、桑名藩、そして幕府領が入り組んだ土地であって、それぞれの藩の政策や利害が絡まり、一か所の治水工事が他所へ深く影響した。水害との闘いは、輪中と輪中の間、同じ輪中内、そして藩領を超えた争いを引き起こしたのである。その結果、治水対策は個々の村や藩領単位では解決しない、三川全体の問題として浮かび上がってきた。

江戸時代の治水政策

 江戸時代の治水工事は、①幕府が自らの費用負担と責任で実施する公儀普請。②幕府の命令を受けた大名が、自領とは無関係の地域で工事費用などを負担して実施しする御手伝普請。③幕府が自らの権限と責任で実施する治水工事に大名以下の武士・百姓、町人を普請役として動員させて費用負担を強制する国役普請。(木曽川流域では、美濃一国の大名らが領域を超えて17世紀初頭の治水工事に参加し、新田開発の積極的な展開が見られたのは、国役普請が行われた結果である)。④自分たちの暮らす村内の小規模な工事を、自らの資金と労力で行う普請や、大名が自領域を自らの判断と負担で実施する普請である自普請(近世社会の治水事業の基本的なものであった)の4種類に大きく分類される。

「三川分流」構想

 地理的には長良川、揖斐川は木曽川より低い位置を流れており、水が増すと木曽川の水が美濃側へ押し寄せ、洪水被害を増大させることを、美濃国、伊勢国の農民たちは認識していた。延享3年(1746)に尾張藩領および高須領(現、岐阜県)40ヵ村の庄屋が連署して、木曽・揖斐両川の分流工事実施の嘆願書を多良役所(現、岐阜県)へ指出している。同年正月付の嘆願書には、「木曽川之常水段々高ク成、伊尾川之水是レ被押支え、其上桑名川走埋水行悉差支申候故にて御座候へば、木曽川伊尾川を海口迄分通し、海へ流入候様ニ被為仰付被下置…」と記され、木曽川、長良川、揖斐川のそれぞれを分けなければ根本的な解決にならないことが、明確に述べられている。木曽川、長良川、揖斐川の順に水が流れ落ちる事を防ぐことが出来れば、洪水が減少すると訴えたものである。
 幕府側でも、三川分流が必要であることを理解していたと伝えられている人物がいる。美濃郡代(笠松陣屋)9代代官、伊沢弥惣兵衛為永である。紀州の人で将軍吉宗に招かれ、勘定所新田開発吟味役となった人物であるが、享保20年(1735)に82歳の高齢であるにもかかわらず、難所の治水工事を担当した。在任中に三川を巡視し、綿密な三川分流治水工事計画を幕府に建言した。後に施行された宝暦治水工事は、為永が美濃代官在任中に企画した設計を基に実施されたと言われている。

宝暦治水の概要

 幕府は延享4年(1747)に奥州藩に濃州川々普請御手伝いを命じたが、工事が小規模であり根本的な解決には程遠く、工事後も揖斐・長良川中流域に於いては水位上昇、河水の滞留、逆流現象が恒常化し、水害が頻発した。そのためついに幕府も本格的な工事の断行をせざるを得なくなり、それが、宝暦4年(1754)に始まる「宝暦治水」である。
 工事の狙いは、下流域では複雑に入り組んで流れていた木曽三川をそれぞれの独立した3つの流れに分けること、すなわち「三川分流」の工事である。輪中地域を苦しめた洪水の頻発を根本的に解決させるには、こうした抜本的な工事を行うしかなかった。
 薩摩藩の出費は40万両といわれ、また多くの犠牲者を出した難工事の概要は、大きく以下のようにまとめられる。
①木曽川から長良川へ流入する逆川(上流域)の締め切り。
②長良川から揖斐川へ流下させるために設けた大榑川(中流域)に洗堰を設置し、揖斐川へ流入量の規制。
③木曽川と揖斐川の合流点である油島に堤を築造し、揖斐川と木曽川(長良川も含め)とを分流。
特に③は最難関の工事であった。それ以前の局所的な工事と違い、大規模な堤の新設、護岸工事、浚渫などを伴い、その効果は329ヵ村に及んだと言われる。領域全体を視野に入れ、それぞれの川の水は出来うる限り各々の川へ河口まで流し落すことを目指した画期的な工事であった。
 だが、「宝暦治水」では完全な「三川分流」は達成できなかった。工事の要のひとつの大榑川(中流域)締切工事は、本来ならば完全に締め切る筈であったが、水の逃げ場が無くなって洪水被害が起きる事を恐れた長良川沿いの村々からの反対要求を受け入れて洗堰(常時水が流れる堤)にしたため、洪水時には水位が上昇し、長良川上流の輪中に障害を及ぼしてしまったのである。
 また、最大の難工事であった油島(現、岐阜県海津町)・松之木(現、三重県長島町)間の築堤工事に於いても、本来は油島・松之木間を完全に締め切る予定であったが、松之木から200間(約360m)、油島から550間(約990m)の食違堰(堤防)を設置して、中央部に約三分の一にあたる200間(約360m)の中間部分を水が流れるようにしておいた結果、木曽川から揖斐川への土砂流入を防げず、満潮時には木曽川から揖斐川筋に影響が及び、輪中内の排水を妨げた。
 完全なる「三川分流」を行えなかった最大の理由は、藩領ごとの利害対立であった。流域全体の洪水防止よりも個別藩領の要望が重視されて、不十分な工事の結果になったのである。

「宝暦治水」後の治水工事

 薩摩藩士の多大な犠牲と多額の工事費用を強いた大規模工事にもかかわらず、宝暦治水以後も洪水は頻発しており、その後も御手伝普請が何度も実施されている。薩摩藩も宝暦治水後に2度の御手伝普請を命じられているが、他に近隣の伊勢の津藩をはじめ、木曽三川から遠く離れた佐賀藩など九州や四国の諸藩、奥州、越中、信州などの約60余りの諸藩に命が下されており、薩摩藩が特段に重い負担を背負わされたわけではなかった。
 宝暦治水以後の普請は、油島・松之木間を中心としつつ流域全体にわたるものの、場所は同じ工事箇所で繰り返し行われた。だが普請の内容は、水行普請や堤防の補強工事などであり、「宝暦治水」のように三川の分流を意図したものではなかった。そのため根本的な洪水対策とは成り得ず、幕末に至るまで水害と普請が繰り返されることとなった。

おわりに

 木曽三川の大規模な流域の変更とそれに基づく洪水の根本的対策は、明治時代に入り領主制が解体し、近代中央集権国家が成立するのを待たねばならなかった。
 明治政府は外国の技術を取り入れて日本の治水工事に役立てる事を決定し、オランダ人技師のヨハネス・デレーケを迎え、木曽三川の洪水を防ぐ工事を行わせた。デレーケは、それまで網の目のように入り乱れていた支流を整理して木曽三川を完全分流し、蛇行していた本流を直線に近づけるために輪中を削り、川幅を広くした。その結果、輪中の中・下流域に新田が開発され始めた1600年以降、急激に増加していた西濃地域の洪水回数が激減した。
デレーケの工事は、洪水対策の歴史として、画期的なものだったのである。だが、デレーケの行った工事の方針自体は、必ずしも目新しいものではなかった。先にのべたように木曽三川の水流を分ける必要性は、江戸時代中に洪水対策を訴える農民たちからも主張されており、宝暦の治水工事においても、明確に意識されていたのであるが、領地関係の複雑さがその完全な遂行を妨げた。
 その後、幕末に至るまでの普請工事に引き継がれることはなかったが、「三川分流」の構想自体は、西洋人技師のデレーケを待たずとも既に成立していたのである。「宝暦治水」が目指したものは、近代の本格的な三川分流工事に、理念としてつながる歴史的意義を持っていたのである。

参考文献
『木曽三川~その流域と河川技術』
『木曽三川流域誌』
『岐阜県治水史 上巻』
『尾張藩社会と木曽川』
『三重大学地域交流誌 [TRIO](Vol.17)』

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