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中部に新しい国際空港を~佐藤充弘が巨大プロジェクトに挑戦した7年の軌跡

東海銀行行員の佐藤充弘は、ある日突然「中部空港調査会の専務理事に行ってくれ」と命じられた。それは中部の夢だった「中部国際空港」が実現するかどうかを左右する、重要な仕事だった。空港のことなど全くの素人だった佐藤の、巨大プロジェクト実現へのチャレンジがスタートした。

中部に国際空港を!

 最初に中部国際空港の構想を語ったのは、愛知県知事の桑原幹根だった。桑原は昭和41年「現在の名古屋空港(小牧)ではいずれ限界がくる。中部の将来を考えれば、本格的な国際空港を作る必要がある」と述べた。時は日本の高度成長期。今後、日本各地に大規模国際空港が必要になることは明らかだった。政府は新国際空港(成田)の建設に着手。関西でも大阪空港(伊丹)に代わる新たな国際空港の建設計画が始動していた。しかし国が中部国際空港の建設には消極的だったこともあり、建設計画が現実味を帯びることはなかった。

中部空港調査会設立

 転機となったのは、昭和59年だった。鈴木礼治愛知県知事が「早急に中部国際空港の建設計画に取り組みたい」と発言。翌昭和60年、『中部新国際空港建設促進期成同盟会』が、続いて東海三県選出の国会議員による『中部新国際空港建設促進議員連盟』が発足した。
 しかし当時、小牧空港の年間利用者数は約300万人。福岡空港や札幌空港は1000万人に近かった。国は首都圏第三空港や拡張余力のない福岡空港をどうすべきかは課題だったが、小牧の余力も十分である中部に新国際空港建設の優先順位は高くなかった。
 成田は国が千葉県三里塚に立地場所を決めたが、国家的悲劇とも言うべき地元住人の激しい反対運動が起きた。関空は国の『航空審議会』の議論を経て和歌山県寄りの海上に決めたが、場所を決めるのに十年かかった。場所の選定は地元自治体の利害が対立する可能性があり、プロジェクトの成否をわける重要なテーマだった。
 昭和60年、運輸省は地元の熱意に応えて、空港建設に関する様々な調査をするための組織『財団法人中部空港調査会』の設立を認可した。ただし国は「財団には人も資金も出さない。地元の責任で多数決ではなく満場一致で最適(ベスト)な立地場所を選定すること」を条件とした。
 地元財界と愛知県、岐阜県、三重県、名古屋市が計5億円を出資し、初代理事長に東海銀行頭取、名古屋商工会議所会頭を歴任した三宅重光(後にJR東海会長)が就任した。調査会内に学識経験者による立地部会が設立され、候補地の調査がはじまった。

調査会の専務理事に

 昭和63年、中部空港調査会に専務理事ポストを新設することが決まった。三宅理事長は常勤ではないため、常勤の理事が必要になったのだ。そして白羽の矢が立ったのが、東海銀行の豊田南支店、有楽町支店等の支店長を務めてきた佐藤充弘だった。
 同年6月、佐藤は東海銀行の西垣人事部長から「業務出向で専務理事として財団法人中部空港調査会に行ってくれ」と言われた。寝耳に水だった。東京勤務が長かった佐藤は、中部空港調査会が何なのかも知らなかった。「中部で新しい国際空港を作るという動きがあり、それに関する調査をする組織だ」と説明を受けた。佐藤は驚いた。
 「もし実現するとなったら1兆円近い建設費を投入するようなナショナル・プロジェクトですよね。そんな途方もないプロジェクトの中心的組織の、実質的リーダーである専務理事などという重大なポストが、私に務まるとは思えませんでした。空港の知識なんか皆無でしたし」。

立地可能性調査の公表延期

 8月、専務理事に就任した佐藤は、専務理事としての仕事をスタートさせた。中部空港調査会は、立地部会が取り組んでいた候補地の調査結果を9月に発表することになっていた。公表内容の調整をするための会議が連日開かれた。着任したばかりの佐藤にとって、口をはさめるほどの知識はまだない。会議ではひたすら他人の意見に耳を傾けていた。
 関係者の議論を聞きながら、佐藤は疑問に思ったことがあった。中部空港調査会は「科学的、技術的、総合的な調査によって気象条件、建設費、アクセス条件、環境条件等を調査し、結果をいっさいの政治的配慮を排して公表する」という理念があった。しかし実際は、発表予定の内容には様々な調整が加えられていた。
 「例えば、立地部会の調査で空港島建設費がA地点では1500億~1700億、B地点では2000億~2200億だった場合、両地点とも2000億円程度といった具合に、なるべく差をつけないようにする調整が行われていたんです」。
 ある日、佐藤に愛知県の森航空対策監から一本の電話が入った。森は言った。「江崎先生(中部新空港建設促進議員連盟会長の江崎真澄氏)が『立地可能性調査の公表が拙速すぎないか?』と心配しておられた。三宅理事長や鈴木知事は了解しているのですか?」。
 そのあたりの事情に詳しくなかった佐藤は、さっそく三宅理事長、鈴木知事に確認を取った。三宅理事長も「公表は拙速すぎるのではないか?しかし江崎先生と鈴木知事が公表賛成ならば…」。鈴木知事も「江崎先生と三宅さんが了解しているならば…」と、三者とも自身は公表を懸念しながらも「他の二人が了解ならば」というわけだった。結局、9月公表は拙速に過ぎるとなって、12月に延期することになった。

オリンピックの失敗を胸に

 佐藤が就任した当時、中部国際空港プロジェクトはまだ実現するかどうか微妙だった。佐藤は就任の挨拶のため、中部経済界のキーパーソンを訪問し「この空港は本当に実現すると思いますか?」という質問を試みた。多くの人が「無理と思う」「極めて難しい」という意見だった。
 佐藤はこのプロジェクトを成功させるためには、東京での知名度を上げることが重要だと考えた。地元メディアの報道もあって、東海三県では一般の人々の関心も高かった。しかし全国的にみると、プロジェクトの知名度はゼロに等しかった。「中部空港調査会は小牧の何を調査するのですか?」と聞かれたこともあった。
 佐藤の頭の中には常に「名古屋オリンピックの招致失敗」があった。ロンドンとブリュッセルが財政的な理由で辞退。ソウルとの一騎打ちになり、「名古屋招致はほぼ確実」という楽観ムードが支配的となった。名古屋の街はオリンピック誘致で盛り上がった。ビルには「名古屋にオリンピックを」という垂れ幕が掲げられ、各地で招致成功を願うイベントが開催された。しかし昭和56年、ドイツ、バーデンバーデンで開催されたIOC総会で韓国のソウルに大敗。名古屋オリンピックは夢と終わった。
 「あの失敗を繰り返してはいけない。そのためには、全国的にこのプロジェクトの認知度を広めることが必要だと思いました。特に国の『第6次空港整備五箇年計画』に中部国際空港が何らかの形で盛り込まれることが重要でした。ここに載れば、ナショナル・プロジェクトとして国に認知されたということですからね」。

調査会東京事務所設立

 佐藤は東京事務所が必要だと考えた。しかし中部空港調査会は運輸省の認可団体なので、事務所開設の手続きに時間がかかる。『第6次空港整備五箇年計画』にノミネートされるには、すぐさま行動に移る必要があった。運輸省の許可を待っている暇はない。佐藤は東海銀行の了解を得て自分の事務所として虎ノ門に部屋を準備し、そこを調査会東京事務所とした。
 昭和63年10月、オープニングパーティが開かれ、多くの航空関係者や東海三県の財界人、マスコミなどが招待された。出席した運輸省航空局の小坂課長は「運輸省としてこの事務所を認知したわけではないが、認識はしました(笑)」と言った。この東京事務所は調査会の東京の拠点として、中部国際空港株式会社設立まで機能した。

常滑沖で合意

 12月3日、中部空港調査会が「立地可能性の調査」の結果を発表。候補地は「伊勢湾北部・鍋田沖」「伊勢湾東部・常滑沖」「伊勢湾西部・鈴鹿沖」「三河湾・幡豆沖」の4つだった。
 鍋田沖は名古屋港の第二航路を塞ぐ可能性があり、騒音の問題も懸念された。鍋田沖と鈴鹿沖は地盤が弱く工事費が高騰する可能性があった。常滑沖は地盤が固かった。
 三県一市の意見は割れた。三重県は議会で「鍋田沖が望ましい」と議決。岐阜県と名古屋市も「鍋田沖」を支持した。しかし中部空港調査会の調査結果を元にした議論の結果、岐阜県は常滑沖を容認すると方向転換。最後まで鍋田沖にこだわった三重県も常滑沖を容認した。
 翌平成元年3月22日、三県一市は常滑沖で合意した。中部空港調査会が示した「科学的・技術的・総合的な調査結果」には、誰も異論を挟めなかったのだ。
 わずか3か月で立地決定にこぎつけたことは、運輸省や空港建設の意思決定にかかわる各方面から驚きを持って評価されることになった。国の『第6次空港整備五箇年計画』に中部国際空港が取り上げられることが確実になった。全国的な企業が続々とプロジェクトを応援するための研究会を立ち上げた。潮目が変わった。

三宅理事長の退任

 平成4年、三宅理事長が健康上の理由で中部空港調査会理事長を辞任。後任に豊田章一郎トヨタ自動車会長が就任した。専務理事のポストもトヨタの人間が就任するとみられていた。しかしトヨタ自動車の意向もあって、佐藤の留任が決まった。佐藤は東海銀行本店に勤務していた時、トヨタグループを担当していたし、その後の豊田南支店長時代にも、豊田英二社長をはじめ多くの人達との交流があった。運輸省も佐藤留任に異存はなかった。
 その後も、佐藤は常滑沖のボーリング調査やそれに関する愛知漁連・三重漁連との交渉など、困難な仕事を着実にこなしていった。
 中部国際空港は国の『第6次空港整備五箇年計画』『第7次空港整備五箇年計画』で取り上げられた。国が全く関知しなかった地方主導のプロジェクトは、名実ともに国家プロジェクトとして認知された。

調査会専務理事を退任

 平成6年3月、豊田章一郎理事長が経団連の会長に就任するため中部空港調査会理事長を辞任。後任に松永亀三郎中部電力会長が就任した。5月、松永新理事長は中部電力から新たな専務理事を任命。佐藤の中部空港調査会専務理事としての仕事は7年で終わりをつげた。
 平成10年5月、中部空港株式会社が設立され、トヨタ自動車出身の平野幸久が初代社長に就任した。中部空港調査会は実質的にその役割を終えた。

1998年5月、国・愛知県・岐阜県・三重県・名古屋市と民間企業などの出資により『中部国際空港株式会社』が設立された。初代社長にトヨタ自動車出身の平野幸久が就任。トヨタ流のコスト削減を徹底させ、空港建設の総事業費7,680億円を2割少ない5,950億円に削減することに成功した。展望デッキや展望風呂、レストラン、売店などの商業施設の売り上げも順調で、2010年以降、安定した黒字を続けている。その後、4人の社長が就任、すべてトヨタ自動車出身である。

 

セントレア開港式

 平成17年2月、中部国際空港・通称セントレアが開港した。
 佐藤は松尾道彦運輸省元事務次官、岡田清成城大学教授と供に開港式に出席した。「今日はあんたにとって特別な日だね」と松尾は佐藤に言った。
 開港式には皇太子殿下のご臨席もあって、厳重なセキュリティチェックが行われていた。受付で松尾と岡田は来賓席に案内されたが、佐藤は一般席に座るよう指示された。松尾と岡田は「この人が一般席なんてありえない」と言い、一緒に来賓席に着席した。
 「さすがに開港式の時は凹みました。関空開港の時は一番機に搭乗できたのに…。でも、その後の立食パーティーの時、豊田章一郎さんに声をかけられましてね。章一郎さんが私の肩を抱いてこう言ったんですよ。『この人がいなかったらこの空港はできなかったんだよ』って。それで、気分を直して帰って来ました(笑)」。

激動の7年を振り返って

 佐藤は中部国際空港に携わった7年間をこう振り返った。
 「アマチュア経験しかないピッチャーがいきなりプロのマウンドに立たされて、なんとか5回ツーアウトまで投げて、あと一人で勝利投手、というところで降ろされたような感じですかね(笑)。大変なことばかりでしたけど、今思うと本当に面白かった。普通じゃ絶対に経験できないようなことを経験できましたから。あのまま銀行に勤めていたら、平凡な人生だったと思います」。

佐藤充弘氏プロフィール

佐藤充弘
昭和11年、中国・天津に生まれる。昭和36年、小樽商科大学卒業、東海銀行入行。豊田南支店長、飯田橋支店長、有楽町支店長、名古屋港支店長等を経て、昭和63年、52歳の時に財団法人中部空港調査会専務理事就任。平成6年、退任、社団法人中部開発センター副会長就任。平成12年、63歳で退任。現在、四日市市笹川在住。趣味はヨット、ゴルフ。

EPISODE

時に豪胆な佐藤氏には面白いエピソードがたくさんある。その中から2つ選んで紹介します。

サハラ砂漠とゴビ砂漠を行ったり来た

 昭和63年9月、キャピトル東京で行われた中部新国際空港建設促進議員連盟の会合が行われた。8月に専務理事に就任したばかりの佐藤はスタッフが用意した原稿を読み終え、質疑応答に入った。
 愛知県選出の今枝議員が質問に立った。「今のあなたの説明では4千メートル級の滑走路ということだが、やがて登場する超音速旅客機は1万メートル級の滑走路が必要と言われている。4千メートルの滑走路では対応できないのではないか?」。佐藤がスタッフの方を振り返ると「専務理事に答えて頂きたい」と今枝議員は言った。
 参ったな~と思いながらも、佐藤は腹をくくって答えた。「我が国をはじめ世界の主要都市では空港の建設は容易なことではありません。1万メートルの滑走路が必要な旅客機が現れたとしても、世界の主要都市では対応できないと思います。仮にそのような旅客機が登場しても、ゴビ砂漠とサハラ砂漠を行ったり来たりでしょう」。隣にいた運輸省航空局の次長が小声で「お見事!」とつぶやいた。

心正しき者だけが見える書類

 机上調査により、常滑沖の水深は浅く、海底の地盤も強固なものだということが明らかになっていた。しかし本当にそうなのか、実際にボーリング調査をしてみる必要があった。ボーリング予定地は名古屋港のメイン航路に近く、ここに障害物を設置する場合、運輸省の第四管区海上保安本部に膨大な資料を添付した申請書を出さなければならなかった。
 申請書には愛知・三重両県の漁連の同意書も必要だった。しかし漁連とは交渉中で了解の目途は立っていない。漁連の了解を待っていては、2005年開港というスケジュールが危うくなる可能性もある。佐藤は「愛知県漁業組合連合会同意書」「三重県漁業組合連合会同意書」と表紙に書き中は白紙のものを申請書のぶ厚い束の中に入れ、第四管区海上保安本部の本部長に申請書を提出しに行った。
 本部長は言った。「漁連の同意書は入れてありますか?」。佐藤は言った。「もちろん入れてあります。ところが不思議なことに、この書類は心正しきものには見えるのですが、心正しくない者には見えないのです。本部長は見えますか?」。本部長は白紙の同意書を見て「なるほど、私にもよく見えます」と笑った。手続きは無事終わった。
 この白紙の書類は、正式に両漁連の了解を得たのち、差し替えられた。

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