【寄稿】元四日市市職員・日本考古学協会会員 北野 誠
明治維新は、日本を近代国家にするための出発点となったが、この明治維新に「偽官軍事件」という四日市を舞台とした幕末の悲話があった。
維新の火ぶたを切った鳥羽・伏見の戦い後、勝利した薩長の官軍は征討組織・東征軍をつくり、江戸に向って大進撃を開始した。この東征軍の先鋒隊として綾小路俊実と滋野井公寿の二人の公卿と、下総国(現在の茨城県)の草莽・相楽総三(本名小島四郎)を盟主とする「赤報隊」が結成された。名前は「赤心を持って国恩に報いる」という意味からつけられた。
慶応四年(明治元年)正月十日、琵琶湖・湖東三山の名刹金剛輪寺で旗上げした赤報隊は、維新政府の許しを得て「御一新」と「年貢半減令」をかかげて進軍した。しかし維新政府の財源確保で年貢半減が不可能になると「偽官軍」の汚名をきせられ、「強盗無頼のやから」として数人が四日市の三滝川の川原で処刑されてしまった。
犠牲となったのは山本太宰・綿引富蔵・小林雪遊斎(安藤石見介)・赤木小太郎(赤城小平太)・川喜多真彦・佐々木可竹・玉川熊彦・小笠原大和の八人とあるが、一説よると三人とも言われている。赤木小太郎(赤城小平太)は小室左門の変名、玉川熊彦は綿引富蔵の変名であり、大政官作成の文書によって「墓碑建設ヲ許ス」とされる川喜多真彦の墓碑は今だ明らかでない。
泊山墓地公園の無数の墓石が立ち並ぶ広大な敷地の一角に、小室左門と綿引富蔵の二人の墓碑がある。茨城産の〝斑石〟と思われる墓碑は、二十センチ四方で高さ八十センチを測り、「水戸藩士」の下に姓名が刻まれている。
処刑されたのは、明治元年正月二十七日のことで、小室左門二十六歳、綿引富蔵二十九歳であった。墓碑は、明治三十年頃に子孫が建立したらしく『地方発達史と其の人物』(昭和十年十二月一日発行)では現在の栄町の松月庵境内にあったと記す。