三重の歴史

信長と第二次北伊勢侵攻その1

 信長が北伊勢に影響力を強めてきた1568年(永禄11年)頃、信長を取り巻く状況はどういったものだったでしょうか。
 まず、さかのぼること2年ほど前の1566年(永禄9年)頃、信長は後の室町将軍となる足利義秋(後に改め義昭)とひそかに上洛計画を進行させていました。しかし、この案は同年に行われた美濃攻めの失敗によって一旦水に流れてしまいます。
 また、信長の妹であるお市が浅井長政に嫁ぐのも、有名な「天下布武」の印を用い始めるのもこの頃です。

 ところで、この「天下布武」の言葉の意味を正確に知ることは、この後の信長の行動の真意を知る上で重要なポイントとなります。
 まず、「天下布武」のうちの「天下」についてですが、現代に生きる私たちの感覚からすると、「天下」は日本全体を指す言葉だととらえることが一般的でしょう。
 しかし、当時の人々はそれとは違った意味で使っていたようなのです。
 当時の日本にやってきて、布教活動を行ったイエズス会のルイス・フロイスの報告書や、秀吉が清洲会議の内容を織田信孝の家臣に報告した書状などに記された内容を見ると、当時の「天下」とは、「京を含めた山城、大和、摂津、河内、和泉」の五カ国のことを指すと考えるのが妥当なようなのです。
 そうでなければ、まだ尾張・岐阜を押さえたばかりの一地方の大名に過ぎないこの段階の信長が、天下(日本)統一=「天下布武」を唱えれば全国の大名を敵に回すことになり、後の四面楚歌の状況以上に全国の大名から袋叩きになった可能性があります。
 ところがそうはならなかったのは、この時代に生きる人たちの認識として天下=五畿内ということが常識だったから、と考えるのが自然でしょう。
 信長は、当時の京周辺の状況を見て早期の五畿内安定を図る必要性を感じており、そのため、(義昭の要請もあって)できるだけ早く京に義昭を伴って上洛し、義昭を室町将軍にしようとしたと思われます。  つまり、「天下布武」は五畿内安定を図るためのスローガンだったいうことが言えるのです(「布武」については長くなるので別の機会に譲りたいと思います)。

 実際、この義昭上洛を成功させるために、信長は三好三人衆を駆逐し、近江の六角氏を追放することに成功します。そして、同じころに北伊勢の大部分を掌握した余勢をかって中勢にも侵攻して安濃津城を攻めています。
 当時、安濃津をはじめとして安濃郡・安芸郡を支配していたのは鎌倉時代から地頭として活躍していた長野工藤氏(以下長野氏)という国人でした。
 この長野氏は、室町幕府から正式ではないものの分郡守護(郡単位の守護)言えるような権限を与えられていたようで、それだけ室町幕府ともつながりが深かったようです。
 長野氏は、南北朝時代に伊勢に進出してきた南朝方の北畠氏に対抗して、北朝方として北畠氏と対立していきます。
 そして、南北朝時代が終焉を迎えても、その北畠氏と対立しながら北勢に進出すべく亀山の関氏と争ったり、一時は桑名を支配しようとするなど活発に活動します。
 しかし、時代が下り、長野家当主藤定は1558年(永禄元年)に北畠具教の攻勢に屈して、具教の次男具藤を養嗣子に迎え入れて実質的に北畠氏の傘下となります。
 この具藤が織田勢侵攻に長野家当主として対応することになるのですが、長野家の内部には主戦派の具藤と勇将と言われた細野藤敦、これに対して織田に従う方が得策と考える分部氏や川北氏などがいて、中々方針が定まらなかったようです。
 こうした混乱のため、安濃津城はほとんど無抵抗で織田方に落ち、その間、分部・川北両氏がひそかに信長の弟信良(信包)を養嗣子として迎え入れ、神戸氏の娘をこれに配して長野家の安泰を図ろうとする工作を進めることになります。
 分部氏らにしてみれば、何かにつけ元は敵だった北畠氏の容喙を受けるのが面白くなかったのでしょう。また、戦国に生きる武人として冷静にその状況を判断した結果、よりベターな選択肢として織田家につくという結論が出たのではないかとも思われます。
 彼らのこうした工作が実を結び、長野氏は最終的に織田に降ることになります。
 この時、信良(信包)は名を長野次郎と改め、分部氏らの工作とおり神戸氏の娘を迎え入れて長野家の実質的な支配者になります。
 藤敦にしてみれば、これは面白いわけがありません。1569年(永禄12年)のはじめ頃に、信包が清須に出かけて留守になったところを狙って長野城を奪い取り、人質を取って反抗する姿勢を見せます。
 この知らせを受けた信長は、滝川一益の子を自分の子としてこれを藤敦に与えるという条件を提示して、分部氏・川北氏らに説得工作をさせて承知させています。
 こうして、織田勢は中勢を押さえることに成功し、信包は一旦上野城に入り、安濃・安芸の地を守備することになるのです。

 ここで滝川一益の名前が出てきますが、彼は、1967年(永禄10年)に信長から伊勢攻略を命ぜられて、その責任者として活動をしていました。
 つまり、織田勢の中で伊勢方面の事情に最も明るいのが彼なのです。そのため、信長は滝川一益の子を自分の子として藤敦に与えて早期に問題を解決しようとしたのでしょう。
 ちなみに、先ほど述べた義昭上洛の時には滝川一益は供奉しなかったようです。おそらく、この北伊勢の守備と翌年に計画されていた北畠氏攻略戦に備えていたためと思われますが、それだけ伊勢方面が目の離せない状況だったとも考えられます。
 そして、後に北伊勢五郡の守護となった滝川一益は、時期ははっきりしませんが検地を行っています。
 この頃の検地は、「差出し」と言って、家臣や寺社、村などに土地の面積や耕作者、年貢などを書いた書面を提出させるという自己申告に近いものなので、正確性に欠けるきらいもありましたが、反面、素早くその土地の状況を把握できる利点もありました。
 こうして、信長は伊勢国の支配体制を着々と構築していくことになるのです。

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