【取材/2012年12月】
四日市に順送り金型の製作・販売で日本屈指の業績をあげている会社がある。広永町の株式会社伊藤製作所だ。従業員約80名。規模だけみたら中小企業だが、その業績や事業展開は、中小企業の枠をはるかに超えている。1996年にフィリピンに進出。フィリピン工場は今では本社を上回る業績をあげ、2013年夏にはインドネシアにも進出する予定だ。その発展の原動力となったのは、親子2代にわたる”金型”への熱い想いだった。
先代・伊藤正一が持ち続けた金型への想い
伊藤製作所は伊藤澄夫の父・伊藤正一が1945年に創業。当初は魚網機械用部品を作る会社だった。しかし正一は「これからは金型だ」という思いを常に持っていた。
正一が金型の重要性を知ったのは太平洋戦争末期、名古屋大空襲の時だった。B29が御器所に墜落。ちょうど名古屋の航空機工場で働いていた正一は、さっそくB29を見に行った。そして機体の残骸を見て驚いた。部品がすべて金型で作られていたのだ。当時、日本の飛行機の部品は職人の手作業で作られていた。部品ひとつ作るのに一日仕事だった。「アメリカではこの部品を作るのに5分とかからないだろう。この戦争はとても勝ち目がない」と正一は思った。
終戦後、正一の金型への思いは消えなかった。1963年、正一は設備を導入し、金型設計・製作の仕事を開始。息子の澄夫が大学を卒業するのを待って、彼を金型部門の責任者に据えた。「3年間は利益を出さなくてもいい。その間は本業の儲けをつぎ込む」と正一は澄夫(以下、伊藤)に言った。
金型製作から部品の量産へ
当初は試行錯誤していた金型製作事業だったが、次第にノウハウを蓄え売上も伸びていった。しかし伊藤は「金型を作るだけでは売上は頭打ちになる」と感じていた。金型製作の仕事は頻繁にある訳ではない。例えば自動車メーカーで金型製作の仕事が発生すると、多くの金型製作会社が受注しようとして競合となり、大幅に値段が下がる。伊藤は「金型を売るのではなく、金型で作った部品を売れば仕事が安定し売上も増える」と考えた。一度自動車の部品を受注してしまえば、その車がモデルチェンジするまで仕事が途切れないという理屈だ。
そこで伊藤はプレス機を大量に導入し、積極的に部品製作を受注した。大量のプレス機は仕事量からみると明らかに過剰設備だった。だが伊藤は余ったプレス機に金型をつけっ放しにし、追加注文があればボタンを押すだけで生産を再開できるようにした。さらに伊藤は、そこで生まれた利益をまたプレス機購入につぎ込んだ。こうして部品製作のウエイトは徐々増えていき、現在では売上の90%を占めるようになった。また機械化を推進したことで、少人数で多くの売上をあげられるようになった。 金型の設計・製作でスタートした伊藤製作所が、今では自動車部品のサプライヤーになったのだ。しかしその事について、伊藤は言う。
「やはり金型の技術があったから受注に競争力があり、業績を伸ばすことができたんだと思います。プレス機はお金を出せば買えますからね」。
合弁会社を設立しフィリピンに進出
次に伊藤が考えたのは海外進出だった。1985年のプラザ合意以降円高が進んだ結果、企業の海外進出が顕著になった。日本の高すぎる人件費を嫌って、金型発注元である企業が日本から脱出しはじめたのだ。政府が主導した「時短」も人件費を高騰させる一因だった。
「日本の人件費がアジア各国の5倍程度であれば、高い技術力を持つ日本の製造業は海外企業に勝てるでしょう。しかし実際には15倍前後で、しかも日本の高い物価や税制では競争力を保つのは難しいのです」。
伊藤が最初に目をつけたのはタイだった。しかし当時すでにタイは人気があり、多くの日本企業が進出していた。人件費も高くなりつつあった。しかしフィリピンはまだあまり日本企業は進出していない。英語が通じるのも魅力だ。「フィリピンに日本の高い金型製作技術を持ち込めば、仕事はいくらでもあるはず」。
1995年、伊藤はフィリピンのマニラに「イトーフォーカス」を設立した。中国系フィリピン人と50%づつ出資した合弁会社だった。初めての海外進出で不安もあったため、現地を良く知る友人と組むことでリスクを減らすのが合弁の目的だった。
海外に進出する際、一番ネックになるのは人材の確保だ。外国人は日本人と違い、一円でも給料が多ければ簡単に転職してしまう。愛社精神など皆無だ。金型の技術を取得するのに10年はかかる。2~3年で辞められたら大損だ。しかし伊藤はフィリピン人と接するうちに、彼らがとても家族を大切にすることに気づいた。「会社を家族的な雰囲気にすれば辞めないんじゃないか」。伊藤はそう考え、さっそく実践した。社員を大切にし、自ら率先して社員たちに話しかけた。
「社員の誕生日にケーキをあげたら感激され、なんていい会社なんだ!!って(笑)」。 伊藤の考えは的中した。辞める社員は皆無だった。
しかしそんな伊藤の姿勢は、共同経営者である中国系フィリピン人とは相容れないものだった。彼らはボーナス時期になると「利益が出ていない。お前らのせいだ!」と社員を叱咤した。ボーナスを払いたくないからだった。
合弁を解消し、100%出資の会社に
2002年、イトーフォーカスはマニラ郊外に工場を建設することになった。しかし遠いという理由から、社員45名のうち10数名しか新工場には行かないと言う。副社長としてマニラに駐在していた加藤は、急遽30名を追加で採用しなければならなかった。
新工場建設の契約を終え、手付金を払った直後に悲劇は起こった。イトーフォーカスの設立以来すべてを取り仕切っていた加藤が急逝したのだ。絶大な信頼をおいていた片腕を失った伊藤は、新工場建設を断念することも考えた。しかし払った手付金は戻って来ない。取引先の熱心な説得もあり、新工場建設を継続することに決めた。
そんな矢先、共同経営者の中国系フィリピン人が合弁の解消を申し出てきた。加藤がいなければ会社の存続は難しいので、資本金を返して欲しいというのだ。伊藤は彼らに資本金を返し、イトーフォーカスは100%日系企業の「イトーセイサクショフィリピンコーポレーション」として再スタートすることになった。
ところが100%日系企業になることが発表されると、行かないと言っていた社員のほぼ全員が「新会社で働きたい」と言い出した。中国系のボスがいかに嫌われていたかが分かる話だ。伊藤はやむなく外部コンサルタントに選別を依頼し、30名ほどを新会社に採用した。結果的にみるとこの一件は、優秀な人材を選別できたという点で会社にプラスとなった。
フィリピン法人の発展とインドネシア進出
イトーセイサクショフィリピンコーポレーションは順調に発展し、現在ではすべての業務をフィリピン人だけで行えるようになった。優秀な幹部社員も順調に育っているため、日本から経費のかかる駐在員を派遣するにも、最小限の人数で済むのも強みだ。人件費の安いフィリピンで金型を設計し、金型の製作は日本で行うという常識から考えたらアベコベのようなことも可能になった。
そして2013年夏、インドネシアの財閥ニュー・アルマダの申し出を受ける形で、インドネシアに新会社「イトウセイサクショアルマダ」を設立することが決定した。出資比率は伊藤製作所が51%。当初はアルマダ側が51%出資する予定だったが、それでは日系企業と見られないということで、協議の結果、伊藤製作所が51%となった。
イトウセイサクショアルマダにはフィリピンから4名の技術者を派遣する。日系企業が日本から駐在員を派遣することなしに、現地法人から現地法人へと人的資源を移動させるだけで事業を行うのは珍しい。伊藤製作所は真の意味での「グローバル企業」へと変貌をとげつつあるといえる。
成功の最大の要因は社員を大切にしたこと
最後に、なぜ伊藤製作所は成功を収めることができたのか? その理由を伊藤は「社員を大切にしてきたこと」と答えた。「ある大学の先生が国内の企業にアンケートを取って、その結果を『顧客を大切にする企業』と『社員を大切にする企業』に分けたら、『社員を大切にする企業』の方が圧倒的に業績が良かったそうです。やはり大切なのは社員なんです。伊藤製作所に技術があるんじゃなくて、伊藤製作所の社員に技術があるんです」。
株式会社 伊藤製作所
三重県四日市市広永町101番地
TEL 059-364-7111(代)