「奉私奉公(ほうしほうこう)」の精神で仕事を充実したものに
会社内で居場所は自身で努力して勝ち得るもの。働く意欲を高く保ち、改善を繰り返しながら会社に貢献。そして、仕事を通して人間形成。それが、日本型資本主義。人間、誰しも欠点を持っている。自身の欠点に敏感であれば、自ずと頭が下がるもの。
創業が大正8年(1919)ですから、創業100年も目前ですね。何代目になられますか?
田山社長 3代目になります。
どういう経緯で、今の事業に就かれたのですか?
田山社長 もともと家業を継ぐ意志はありませんでした。都会への憧れが強く、中学を卒業するとすぐに東京に出て、高校は桐朋(東京都国立市)、商社マンとして人生を歩もうと決心していましたから、大学も家業とはあまり関係のない経済学部に進みました。帰省して四日市港のコンビナートを見ると不思議に興奮しました。当時、日本は高度経済成長期にありましたし、なにかこう力強くエネルギッシュで、大きな世界に向かって開かれていくような高揚感を覚えたものです。
一度、故郷を出た人でも、三重に戻ることが多いようですね。
田山社長 一度出た人を疎外などしませんし、比較的戻りやすいのではないでしょうか。私の廻りにも似たような立場の方は何人かいらっしゃいます。
社長の場合はどうして今の会社を継承することに?
田山社長 創業者は私の曾祖父にあたります。子供にはあまり恵まれず一人っ子、しかも女の子だったので、養子を迎え、事業を継がせたかったらしいのですが、その人は文化人になって、結局引継ぐことをしませんでした。その人とは私の祖父ですが、女の子ばかり5人が生まれると、それで、長女(私の母)を薬学の学校に通わせたそうです。その長女に迎えた養子が私の父です。当時は二人は東京暮らしで、昭和25年、三重へ来て事業を継ぎました。創業者の曽祖父は薬の事業主の傍ら、政治家(=町長)でもありましたし、借金が多く、会社は火の車。2代目となった父は薬のルート営業をしながらも、たいへん苦労したようです。はじめてできた男の子が私で、3代目を期待したらしいのですが、私自身は家業には全然興味がありませんでした(笑)。
それでも、三重へ戻られ、この会社を引き継ぐことになりました。転機は何だったのでしょう?
田山社長 もともと商社志望だったんです。大商社に勤務していた叔父に相談に乗ってもらうと、メーカーの方を勧められまして。神戸製鋼所です。そこは商社を通さず自社で直接購入を行い、多角的に事業展開していました。社風が気に入り、入社を決めました。安倍晋三さんもいました。母は、2代目を継ぐはずの祖父の言わば犠牲となって薬学を勉強し、養子に迎えた父と三重に来て事業を続けました。その母の実家の家業である薬事業を簡単に投げ出すわけにはいきません。毎年の株主総会だけは参加していたのですが会社が傾きかけていることを感じ、社員からは問い詰められて窮状を知ることにもなり、親族間で話し合った結果、私が戻ることを決めました。すでに私も部下を抱え、生活者の苦労は知っていましたから。彼らの声を生活の糧を得るための必死の訴えかけであることを実感として受け止めたのです。ただ、従業員さんの前向きな様子を見ていて、会社を大きくできるのではないかと思いました。家族の行く末を充分考えた上、一大決心して三重に戻ってきたわけです。
ターニングポイントだったわけですね。結果として、良かった…。
田山社長 でも、当時はたいへんでした。金利だけで億近い額の借金を抱えていました。ですから、5年間だけ様子を見て上手く行かなかったら廃業するつもりでした。それと言うのも、小売店で売れ残りが生じれば返品されてくるし、薬屋に直接訪問するルートセールスでは品数が膨らんで効率も悪かった。さらに、ドラッグストアが出始めた時期でした。私はドラッグストアに将来性を見、win-winの関係を築こうと小売業や卸業の方々と従来の商慣習では口先約束ばかりでしたので個別にきっちりと書いた契約書を交わすようにしました。その地域で固定客を掴んでいる小売店ならいざ知らず、単にメーカーの販促品を並べているだけの小売店は弱いと痛切に感じました。これからはドラッグストアの時代だと感じたのです。さらに、自社で生産技術をもっていると大手メーカーにPRできます。当社の生産技術を駆使した胃腸内服液が大ヒットし、しばらく飛ぶように売れました。こうして、全国に3000軒あった取引先の一般個店の取引先をわずか100軒程に絞り込み、あとは量販店であるドラッグストアへシフト。同時にメーカー間営業を本格化させ、5年間で基礎体制をつくったのです。
大きな負債もその5年間で解消されたわけですね?
田山社長 お蔭様で借金は10年かかって全額返済できました。設備投資に係る分は計画返済ですから、やりようはありますが、運転資金は恐かった…。
なるほど。では、後継者問題について伺います。
田山社長 男の子が二人います。兄弟それぞれ、それまでの仕事を辞めて戻ってきてくれて。ここ3、4年で売上げも倍増し、よくやってくれています。兄の方が経営者向き、弟は研究者タイプ。後継者問題で悩むことはありませんよ(笑)。兄弟仲も良く、お互い譲り合ってね。有難いの一言です。
社員数が増え続けていますが。
田山社長 120人くらいでしょうか。
採用基準は?
田山社長 分子素材関連の研究開発職として三重大学工学部から来てもらっています。この分野の人材にはこだわります。それ以外の仕事はそれほど高いキャリアは求めておりません。地元の新卒の場合、働く意欲の高い方であればと思います。あとは社内で鍛えますから。中途採用も多く、前職での実績を参考にしています。
御社の魅力ですね。
田山社長 非正規であるがゆえに落ち着いて仕事ができない人がいます。私どもでは正社員化して定着させますから、生活のバックボーンが安定し、安心して仕事をしてもらっています。人材の確保は戦略的にも重要です。薬は今日発売の意思決定をしたとしても開発等で、売上としてカウントされるのは3年後。つまり、2~3年先のことを今やっているわけです。その間、発注側と受注側は契約を交わしておく必要があるし、秘密保持が重要になります。ですから、会社にいてほしいという人材には、相当手厚く報いています。
社員が定着するために一番重要だと思われることはなんでしょう?
社員間の評価にミゾが出ないように評価することですね。技術職でない社員の能力を何をもって計るか?が重要です。その人がいなかったら品質が担保されない、例えば品質管理部門などの仕事がそうです。一般職についてもそれぞれの仕事の特性を重視します。
なるほど。では、経営理念を教えてください。
田山社長 「品質は礎、人は財産、利益は泉」です。中小企業はいかにモチベーションを上げるかが重要です。人生の多くの時間を費やす仕事が充実したものでなければ、人生とは空しいものになるでしょう。パンを得るためだけに働くのは苦痛です。仕事が引けた後こそ自分の時間と考えるのなら、労働は苦痛でしかありません。そうではなく、仕事を通して人間形成をするのが日本人の仕事に対する価値観であったはずです。日本的な資本主義というものです。「滅私奉公(めっしほうこう)」という言葉がありますが、これをもじって「奉私奉公」と私は言いたいですね。かつて北川知事が三重には化粧品メーカーも薬メーカーの工場があまりに目立たない。それは薬学系、化学系の大学もないことや内需型、付加価値型産業の育成にもっと力を入れなければいけないと私は口すっぱく申し上げました。これでは産業も、技術職も育たない。それでメディカル・バレー事業が始まり、県健康福祉部と医薬品業界、三重大学の三者の協力下で産学官連携がスタートしました。いくつかの成果を収めることができ、現在三重県の医薬品産業は全国11位にランクされています。
田山社長は上野商工会議所会頭にも就いておられますが、そのお立場から何か?
田山社長 取り壊す予定の庁舎跡を活用して、伊賀の街中に交流人口を増やす工夫をしています。関西方面から伊賀へは名阪国道もあってアクセスが良く、工場を建てるには好都合ですが、人手がないのがネック。量産型工場ならいいのでしょうが、それでは付加価値の点で劣ります。心配なのは若者の仕事に対する意欲が全体的に低いことです。企業側と学校が更に協力してもっとインターンシップ等を通して就労意識を高める必要があります。中途採用希望の方にとっては、当地の自然も生活する上では魅力的に思えるのではないでしょうか。
最後に御社が最も大事にされていることは?
田山社長 データを見ていれば決断できることは多くあります。同時に現場も大切です。顧客との話から客観的に自社の足りない点が浮かび上がってくることもあります。そういう意味では財務指標も重要なポイントです。それよりも、私が申し上げたいのは人間同士が仕事をするということです。誰しも欠点を持っているわけですから、自分の欠点には常に敏感であってほしいと思います。人間関係を円滑にもする謙虚さは、そうした姿勢から生まれてくるのではないでしょうか。会社も同じです。