三重の歴史

唯一現存する伊勢・古市遊郭 / 麻吉旅館

 江戸の吉原、京都の島原、長崎の丸山、大阪の新町と並び、江戸時代には「五大遊郭」と言われた伊勢の「古市」。ここはかつて、お伊勢さんへの「おかげ参り」の帰路、旅人の「精進落とし」で栄え、「伊勢参り、大神宮にも、ちょっと寄り」という川柳も詠まれた。江戸時代には遊郭約70軒(遊女1000人)、浄瑠璃小屋3~4軒が軒を連ね、芝居小屋の舞台では夜な夜な芸妓の伊勢音頭が披露され、参宮の開放感を味わう旅人で賑っていたといわれている。
 そんな古市でただ一軒、当時の面影をそのまま残す楼閣で、今も旅館として営業しているのが麻吉(あさきち)旅館。当時の名は「花月楼麻吉」。看板には嘉永4年(1851)創業とあるが、それ以前の天明年間の地図に出ていたり、文化3年(1808)刊行の「東海道中膝栗毛」にも「麻吉」の名があることから、実際はそれより古いというのが定説となっている。
 麻吉旅館は、江戸時代には多くの芸妓を抱えたお茶屋で、山崖を利用した積み上げ建築。本館を中心に平屋~三階建の建物が階段や廊下で連結されている。2004年に国の登録有形文化財に指定された。

油屋騒動

寛政8年、孫福斎が伊勢古市の油屋に立ち寄った。油屋は遊郭・古市の中でも特に大店で、部屋持ち遊女だけでも24人を数えたという。斎の相手をした遊女はお紺。しかし斎の座敷はおもしろくなかったのか、お紺は途中で他の客の部屋に移ってしまう。お紺に振られて憤った斎は、脇差でいきなり下女や下男に切りかかった。狂乱状態に陥った斎はお紺を探しまわり、目の前に現れた者を次々と切りつけた。お紺は無事だったが、結局死者2名、負傷者7名を出す大事件となった。逃げ切れないと覚った斎はその後、自刃した。この事件は伊勢参りに来た参拝客によって日本中に知れ渡り、有名になったお紺を見ようとする客で油屋は大繁盛したという。またこの事件を題材にした歌舞伎『伊勢音頭恋寝刀』は大評判となった。

(Visited 9,531 times, 1 visits today)







-三重の歴史
-

執筆者:


comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


関連記事

戊辰戦争150年記念「戊辰戦争と桑名藩」

幕末に活躍した桑名藩。大政奉還150周年を記念した昨年の特別展「幕末維新と桑名藩―一会桑の軌跡―」(10.21-11.26)は盛況を博した。数々の展示品には武家政権の終焉と近代日本の幕開けに対峙し困惑 …

三重と平家物語 – 橋本堅

「三重県って地味な県だなぁ」というのが、小学校で歴史を習い始めたときの私の感想でした。  子どもだった私が、小学校で習う歴史の教科書を隅から隅まで見ても、三重県にゆかりのある歴史上の人物や事件はほとん …

信長と第二次北伊勢侵攻その1

 信長が北伊勢に影響力を強めてきた1568年(永禄11年)頃、信長を取り巻く状況はどういったものだったでしょうか。  まず、さかのぼること2年ほど前の1566年(永禄9年)頃、信長は後の室町将軍となる …

北勢の歴史的風景

思案橋 1582年の本能寺変の時、堺にいた徳川家康は、明智光秀の追手から逃れるため伊賀を越えて四日市に入った。さらに三河に逃げるにあたり、陸路を取るか?海路を取るか?悩んだのがこの地と言われている。こ …

三重人物伝 – 川村 瑞賢

東廻り航路、西廻り航路の開拓により高校の教科書にも載る、江戸屈指の豪商・河村瑞賢。一代で財を築いた豪商の多くが吉原や柳橋で遊興にふけったのとは対照的に、瑞賢は材木商として成功した後、海運航路の整備、築 …