活料理 旅館 橘

 的矢湾に面して建つ料理旅館「橘」。入江は波一つなく、穏やかそのもの。
 かつて、真珠の養殖で栄えたこの海は今「かき」の産地として知られる。風光や食材に恵まれたこの地域がさらなる発展に向かうためには何が必要か―。
 伊勢志摩をよく知る「橘」の女将にそのヒントを聞いた。

「橘」の変遷

 「橘」の元の生業は真珠養殖である。御木本幸吉が多徳島や賢島で真珠養殖に成功した頃(明治26年)、的矢湾の橘浦でも義父と友人が共同開発を行っていた。湾は真珠筏で埋まり、人々は真珠の養殖に明け暮れていた。
 「日本列島改造論」に沸いた昭和40年代高度経済成長時代、リゾート開発が進み、志摩半島の多くの浦々で民宿や旅館が増えて行った。義理の曽祖父は養子で、子(後に女将の夫となる男性と妹)を残して戦死。その後、女手一つで子どもを養育してきた義母は一念発起して民宿をはじめる。接客業など未経験な彼女にとって一大決心だったに違いない。それまで親しんできた目の前の入江の名前(「橘浦(たちばなうら)」)を民宿に付けたのは、頼りの綱にしようとしたのかもしれない。
 当時の料理は魚料理が中心だった。牡蠣に力を入れたのは後日のことである。魚料理のバリエーションそのものが店の特色でもあって、腕に選りをかけた。「安乗に師匠がいて、その人のもとに材料持参で教えてもらった」という料理は、一つの素材から50の品数を作るほどの豪華さ。プロの料理を目の当りにし、興味は尽きなかった。
 民宿が軌道に乗り始めると増築を行った。ところが、火災で増築部分が消失。海際だったため、家を再建することもできず、高台で旅館を営むことに。銀行の支店長は渋ったが、背水の陣の構えで我が意を通した。29才の決断だった。「貸金が無事返済されるかどうか余程心配だったんでしょうね。支店長は毎週末、客の入りを確かめるため靴の数を勘定しに来てましたよ」。
 けっして道楽で始めたのではない。支店長の反対を押し切って旅館業を始めたのには理由があった。真珠養殖に見切りを付け、次の民宿も火事で施設の一部を失った。これからの生活のこと、真珠養殖で負った借金返済のこと。一日として頭から消えることはなかった。「やらない訣にはいかなかった」。旅館業に加え、海苔と牡蠣もはじめた。支店長に旅館建設資金の融資を実行させたのは、女将のこうした強い意思だった。
 金の切れ目が縁の切れ目。持てはやされるうちが花。形なくなれば、去って行く…。人とはそういうものであることを知っているからこそ、女将は常に正直であることを心がけてきた。社会的地位に捉われすぎず、時に歯に布着せぬ物言いで相手の胸のうちに飛び込んで行く。心を裸にしたつきあい方を好み、屈託のない話しぶりが印象的。それが受け容れられるのも女将の人徳であろう。

外宮門前の「楽市」、高島屋「全国全店の味百選」への出展

 「橘」は旅館業を営む傍ら、外宮門前での「楽市」や高島屋の物産展へも出展している。「牡蠣めし」が雑誌に載ったことがあり、それを大阪難波の高島屋のバイヤーが見て、出展を依頼された。続いて、今度は東京高島屋(「全国全店の味百選」)での出展意向を聞かれて応じた。はじめのうちは的矢湾で採れる牡蠣を持って行って炊いて販売するだけのシンプルな商法であったが、やがて牡蠣のフライや佃煮などメニューを増やして行った。
 神宮の森から流れ出る水と的矢湾の海水が入り混じる同地区はプランクトンにとって良好な生育環境となる。そのプランクトンを餌にして育つ的矢湾の牡蠣は決められた分量だけ養殖することで品質を維持してきた。これは、乱獲は良くないという認識によるものであった。
 「三重ブランド」として認定される「的矢かき」。ブランドを背負うことの窮屈さはあるが、県産の牡蠣を“三重のかき”と十把一絡げにしてしまうと、的矢のかきは存在感を無くしてしまう。的矢湾で牡蠣の養殖に携わってきた者の矜持であろう。そして、「的矢かき」は味覚の点で他と異なることも確か。産地名表示に嘘偽りはない。

後継者の教育を考える

 女将は、子どもを修行させるため、京都の料理旅館に預かってもらったという。そこでやらせてもらったのは雑役係。まずは人に頭を下げることを覚え、お金を稼ぐということ、つまり仕事というものを覚えてほしかったから。雑役係なら旅館の雰囲気をつかめると考えた。また、本物を知るということも教えた。一流の本物を食すことで舌を肥やせば、形を見たとき、まずまずの確度で再現することができる。
 わが子がお世話になった京都の料理旅館の料理人を冬の間だけ預かることになり、彼らから教わったことも多い。お節料理などがそれだった。

伊勢志摩の可能性

 「橘」が今後目指すのはお客様にゆったり過ごしてもらえる旅館であること。問合せの電話でも、料理メニューなど相手の希望を聞き、見積もりを出して相手に納得してもらえるよう心がけている。「その方が丁寧なおもてなしができる。料理も良いものが提供できるように思う。個々の店がこういう気持で商売をしていたら、もともと資源のある土地なのだから、もっと伸びる可能性がある」。伊勢志摩への観光客を業界全体でもてなすという意識を持つ必要はないだろうか。
 伊勢志摩地域はロケーション、食材、気候に恵まれ、条件はそろっている。ただ、サービス業を営む側の意識を個から公に広げて行く必要はあるように思う。わが店を顧みることを少なくし、業界が一丸となってやる気を出せば、もっと伸びる地域。「このことに気づかずにいるのはたいへん惜しい」。

女将の夢

 夢は?と訊いて「うどん屋」という答えが返って来た。隠居の身に甘んじることはなさそうで、商売代えが夢。「40年以上働き続けて来て、今さら…。出来上がった性分がゆっくりすることを自分に許さない」らしい。
 生産者を育てることと同時に、彼らの販路を手配する必要がある。行政は、ものづくりを推奨することと並行して、売り場づくりに力を入れるべきだろう。売り場が無いのにものづくりに力が入るか?よくよく考えてほしい。相可高校食物調理科生徒が運営する高校生レストラン「まごの店」が注目されているが、同様に県立水産高校生徒(志摩市)による商品開発はできないものか。例えば、志摩のサバを使った缶詰など。女将の夢は「ものづくり=売り場づくり」であるらしい。

活料理 旅館 橘

〒517-0204 三重県志摩市磯部町的矢310
TEL:0599-57-2731(代)
FAX:0599-57-2791
フリーダイヤル:0120-41-2731
http://www.tatibana.com/

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