陶芸の仕事は、結局、人をつくること

「ここに居るとホッとする」。「こちらこそ、ありがとうございます」。客と主人の、このやりとりのなかにおもてなしの真髄が見える。花も茶も、それらを盛る器も、すべては気配りの表れ。双方を行き来し、ある一点で高まって、たちまち消える「しつらえ」の精神。一期一会の美学がここにある。

はじめに、伊賀焼の歴史について教えてください。

長谷 伊賀焼は1300年程前に興りました。日本有数の古陶です。およそ400万年前、大山田地区のあたりは湖の底だったそうで、その湖が徐々に移動しながら大きくなり、現在の琵琶湖になったと言われます。大山田にあった古い琵琶湖の湖底は地質学的に「古琵琶湖層」と呼ばれ、風化した動植物の残骸が堆積しています。その地圧に耐えた土が伊賀焼の粘土として使われています。火に強いため耐火粘土とも呼ばれ、かつて八幡製鉄の溶鉱炉にも採用されていたほど。神器仏器から日常雑器にいたるまで陶土として幅広く用いられました。しかしながら、土が火に強いということは、高い温度で焼かないと陶器にならないということでもあります。釉薬の無い時代、火の面白さを出そうとすれば、高音の登り窯の中に長時間入れておく必要がありました。火に強い土でないと耐えられません。その意味でも、伊賀の土は重宝されてきたのです。城主であった藤堂家、筒井家は茶を良くし、伊賀焼を茶器として認めた上、中央への献上物として用いました。古伊賀の水指「破袋」(重要文化財)など日本を代表する焼き物がここ伊賀から誕生したのは、風雅を愛する城主らに保護されたからにほかなりません。

実に味わいがある。素朴で、眺めていると心が落ち着きますね。

長谷 そうです。この地域で商売に向く人は少なく、伊賀焼は民具として定着しました。伊勢と京都の往還の地であり、近江商人や伊勢商人が活躍していましたから、販路は自ずと広がって行きました(笑)。良質の土に恵まれ、火力の燃料である赤松が豊富でしたが、商売人がいなかった。作り手の多くは農家で、農閑期にろくろを引いていたのです。伊賀焼は茶器として名を馳せましたが、火に耐えられるという品質が評判を呼び、求めに応えて京焼や清水焼、信楽焼の名で出回ったことがあります。このような歴史を背景に、私たちの世代になって、もう一度、伊賀焼を見つめ直そうという気運が高まってきました。過去には京焼や清水焼、信楽焼など名前を変えて良いものを作ってきたという自信のもと、現代の生活者の考えを取り入れながら作陶することを決めたのです。

伊賀焼の復活というわけですね。

長谷 伊賀焼は本来民具ですが、そもそも民具とはその時代の生活用具であって、変化していくのが常です。生活者のライフスタイルを反映するものなのです。

ライフスタイルの変化に沿って、変えないといけませんね。

長谷 変えていくことで、伊賀が民芸の里として生き延び、先人の偉業を伝えていくことの意味を見つけ出せるように思うのです。

まさしく「不易流行」ですね。

長谷 そのとおり。伊賀焼が今後どうすれば生き延びられるかを考えたとき、本質を守りつつも、人々のライフスタイルに合わせて変えていくことに思い至ったのです。

伊賀焼の復活、「かまどさん」の場合


その意味で、「かまどさん」は大ヒット商品でしたね。

長谷 夢みたいですよ。

「かまどさん」の開発経緯について教えていただけますか。

長谷 鍋で炊く飯の旨いことを聞き知り、そこに文明の利便性を加えたわけです。「旨さ」噴きこぼれないようにするにはどうするか。改良に次ぐ改良の結果、4年かけて完成しました。昔は炊きあがった米をすぐに木製のおひつへ移して冷ましました。そのとき木が水分を吸いますが、米が冷めた後も長時間にわたって湿気を出し続けます。それで、飯が旨かったわけです。これを応用することを考えたとき、伊賀の土が役立ちました。

起死回生の大ホームランを放つ


苦労の大かった仕事人生を思えば、起死回生の大ホームランといったところ?

長谷 人に恵まれました。実は22歳のとき事故で右目をなくしまして、そのまま隻眼で今日に至っています。忘れもしません。辛かったんでしょうね、担当医師は酒の力を借りて、精一杯の慰めの言葉をかけてくれました。

人生まっ暗?

長谷 いやいや、人と同じことをやっていては目の分だけ負けです。発奮し、努力しました。そんな頃、同じ境遇にある人たちを励ましてほしいとあちこちから依頼を受けました。問題児を預かって更正させたこともあります。そのときは仕事をする喜びを教えました。彼らといっしょに飯を食うことからはじめ、そのうち、「何かすることはないか」などと言ってくれて…。うれしかったな。保証人になって仕事を世話してやったこともありました。希望どおり長距離トラック運転手になった彼らが東京へ走る日の前日、報告に来てくれましてね。見違えるほど成長していましたよ。その後も様々な問題を抱えた人の出入りがあって、そう、『長谷学校』と呼ばれていました(笑)。そこに植わっている桜、彼らの成人祝いなんですよ。

ご主人とは店が破産状態のときにお会いしたんでしたね。

長谷 元は豊田織機の軍需工場でした。木造3階建てです。あの中で窯を設えてね。火災の心配から、建て替えるよう行政指導が入り、6代目がタイルで工場を造ったわけです。ところが、それが潰れて…。たいへんな時期でした。

タイル産業が傾きはじめた頃でしたし、時機が悪かった。

長谷 阪神淡路大震災でタイル建築の脆さが言われていたんです。タイルは重量がありますからね。瓦も同様ですよ。当店を含め、倒産が相次ぎました。

今でこそ言えるけど、当時はたいへんだった。でも、気力は充実して事業に前向きでしたね。

長谷 夢だけは捨てたくなかった。陶器屋は陶器だけを作るのではなく、視野を広くして金属や木材などを組み合わせることを考え、生活者に使いやすい良いものを提案していかなくては。ですから、ときには想像力を駆使したものもつくるわけですよ。NHKの料理番組の中で「かまどさん」を使っていただき、「こんなに美味しく炊けて、便利なものないわよ…」と一言だけで、問合せの電話が殺到でした。

確かに鍋で炊く飯は美味しいですよ。ところで、娘さんが恵比寿(東京)でアンテナショップを出されたんでしたね。

長谷 狭い場所ですが、立地は抜群です。これも人とのご縁の賜物。でも、料理人さんならともかく、本当に商品の価値をわかってくれて買ってくださるのか、少し不安でした。

伝えたい本当のこと


長谷 工房訓として、「作り手は真の使い手たれ」などとよく言っています。使い手が納得するものでないとダメなんです。ですから、私を訪ねてくる人には、「もう一杯飯が食いたくなるような器を作れ。酒の飲めない奴は酒器をつくるな」と言っています。酒呑みの気持ちが分かる人であれば、それが形に出る。厳しいですが、真実なのです。茶碗にしても、茶溜りの何たるかを知らずして器は作れません。知ってはじめて形を崩すことに意味が出てくるのです。この点、安易に考えてはいけません。

お弟子さんですか、たくさん見えるようですね。

長谷 彼らにはお花やお茶の勉強もさせています。

陶器を作る前にそうした素養が必要?

長谷 はい。陶器は作るだけなら誰でもできる。問題はその後です。例えば「しつらえ」、おもてなしとも言います。つまり気配り。どれだけ相手を思いやることができるかです。

この花や水琴窟も、しつらえなのでしょうか。ここに居るとホッとします。

長谷 その言葉、最大級の賛辞ですよ。こちらこそ、ありがとうございます。そう言っていただくために、私たちの生活はあるようなものです。

これからの予定は?

長谷 慕ってくる弟子たちには、陶芸家ではなく、陶工として一人前に、また、「しつらえ」を理解できる人間に育ってほしいと思っています。しかし、どこまで行っても一人前などいません。だから、作り続けてほしいと思います。

「食育」より「食卓」


これまでの仕事を振り返って、いかがですか?

長谷 器をつくる仕事に携わってきて、食卓がいかに大切であるかを思います。陶器に盛られるのは食べさせてあげたいという母の愛そのものであり、その愛を食べて子は成長します。「食育」云々の前に、食卓を囲むという行為が大事です。話はそれますが、なににも増して思うのは、人のつながりの大切さと有難さです。私が現在あるのはみなさんのお蔭です。どうもありがとう。

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