丸山 学生時代の思い出など、お聞かせください。 市長 故郷伊賀を離れ、学生時代を東京で過ごしました。生活してみて感じたのは、人の関わり方が適度で、自分から働きかければそれに充分応えてくれる土地柄です。言われるように、人間関係が希薄などではけっしてありません。むしろ、過度な干渉もなく、充分なケアが期待でき、自分の居場所が確保されているといった印象でした。それでも故郷を想って心さびしくなったとき、先輩から「ここへ来い」とある場所を教えてもらいました。高層ビルの屋上です。そこから周囲に開けた山々を眺めると不思議に心が安らぎました。東京へ出て来て初めての体験でした。ほかでもありません、それは故郷にあって、東京には無いもの。今、私が故郷の市長を拝命しているのも、学生時代に感じた「故郷っていいな」という素直な気持ちが大きく働いているように思います。他の土地で学生時代を送っていたなら、おそらく違った人生を歩んでいたことでしょう。 丸山 故郷を離れたからこそ故郷にしかないものを見ることができた、その体験が人生の〝伏線〟となり、今のご活躍に結びついているのですね。 市長 県立上野高校の校歌(山口誓子作詞)にこんな一節があります。「越えて溢れて 外に出ん」。故郷がどんなところであるか、子どもの時分にしっかり教えておくことが大人の責任だと思います、人生の先輩として。今後生きていく上でのスタンダードになるわけですから。もちろん、成長すれば、外の世界を見ることが大切です。 丸山 東京ではどちらにお住まいだったのでしょうか。 市長 東京では最初、市ヶ谷で暮らしました。フジテレビの近くです。昭和45年のこと、下宿の窓の外が騒がしくて、テレビをつけて見たら、三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地に乱入しているんですよ。危なっかしい場所だとわかって中央線沿いに引っ越しました(笑)。武蔵小金井、東京郊外です。当時は武蔵野の風景が残っていてね。富士山にも感動しましたよ。 丸山 大学では何を学ばれたのですか? 市長 教育学部教育学科を専攻しました。教職課程を履修して免許を取りましたが、教師は向かなかった。そこで、ひょんなことから、テレビアナウンサーに。「凡庸」とか「平凡」は性に合わないのです。そういう生き方をしたくもありません。
丸山 アナウンサーとしてのスタートを切られたのは関西のテレビ局でしたね? 市長 関西テレビです。入社試験は筆記と実技、面接ですが、それよりなにより、華のある人が合格しますね。オーラというか…。 丸山 入社されてからの思い出をお聞かせください。 市長 当時はまだアナウンサーの仕事も多くはなく、半年間ほど発声練習したり、お茶汲みしたりしていました〝初鳴き〟で天気予報を担当したときの緊張感と感動は忘れもしません。今の新人アナウンサーは入社したらすぐ番組に抜擢されるから、下積み期間が短い。その点、私はラッキーだった。苦労を知ったし、仕事の深さを理解していた。そうした苦労が今、市長の所信表明を行うときに役立っています。 丸山 なるほど。 市長 こうした環境が良いのは、放送がはじまったら誰も助けてくれないということ。だから、すべて疑問に思うことは放送が始まる前に自分でクリアしておく必要があります。市政運営においても、通告があった場合、検討会で徹底的に対策を立てるわけですが、アナウンサー時代の経験で呼吸がつかめています。 丸山 アナウンサー時代のご経験が、今の市政運営に大きく役立っているのですね。 市長 中継放送では限られた時間内で何を中心に伝えるのか、決断の連続です。市政運営も同じ。やるべき時期と方法が大切です。 丸山 まさに政治的な意思決定の場面ですよね。 市長 長年の経験で、それがわかります。 丸山 お聞きするところによると、関西テレビへはご自宅から通勤されていたとか? 市長 伊賀市は特別な場所でしてね。大阪勤務と言えど遠くへ行く感覚はなかった。日常の延長でしたよ。 丸山 そうでしたか。では、市長選に立候補されたときは、こちらにお住まいになっていたのですね。 市長 顔が知られていたから、選挙戦が戦いやすかった。ありがたいことです。
丸山 政治家を志されたのは、どういったお気持ちからでしょうか? 市長 住民のみなさんが住みやすい元気な町でありたいと思いました。国政とは違い、住民主体で、住民目線でやっていきたい気持ちから立候補に至りました。よく官と民、行政と市民などと対立的にとらえられますが、そうではなく、みんな市民なわけですから、市長はみんながうまく持てる力を発揮できるためのリーダーシップをとれば良いのではないでしょうか。 丸山 政治家というより、市民の立場、市民の目線でリーダーシップをとろうというお気持ちで決断されたのですね。 市長 票など気にせず、住民のために尽くすことが私の役目です。ときに〝政治家〟らしからぬもの言いもします。しかし、それは住民のためで、住民にとってプラスであることが重要です。 丸山 市長就任2期目に入りましたが。1期目を終えられたご感想は? 市長 まずは、市民のみなさんとお近づきになることができ、連帯感が生まれてきたように思います。
丸山 先の伊勢志摩サミットでも伊賀地域の日本酒が何種も提供されたように、伊賀市は酒どころともいわれますね。 市長 7蔵あります。いいものがたくさんあって、ポテンシャルに富んだ土地です。ただ、それが十分に活かしきれていない。誠に残念なことです。これらを売って地域経済を元気にし、医療や福祉を充実させていかないと。「忍者」を観光の目玉にと躍起になっていますが、それはあくまで将来に備えるための手段であって、観光のための観光ではありません。財政基盤を強化し、地域経済を豊かにしていくための方策の一つです。 丸山 市長として、今お考えになっている課題はなんでしょう? 市長 自分たちの地域をいかに心地よいものにするか、この一点です。繰り返しになりますが、地域のもつポテンシャルを顕在化して、みなさんにいかに果実を得てもらえるかということが課題です。 丸山 やはり、あくまでも住民の利益を第一にお考えなのですね(笑)。確かに豊富なストックが充分に活かしきれていないという印象はありますね。活性化へのアイデアなどは? 市長 若い起業家たちに空き町家や空き店舗を貸し出して、上手く活用してもらうことを考えています。 丸山 インバウンド需要も期待されていますか? 市長 PRのため忍者のコスチュームで海外に赴きますが、ビジュアルとして定着してきた感があります。ただ、ここ伊賀市が忍者発祥の地であり、聖地であることをどこまで理解していただいているか。今後の課題です。 忍者が観光の重要コンテンツであると考え、就任後に手裏剣をあしらった名刺も作りました。黒色の名刺は結構インパクトがあるようです。裏に伊賀ブランド(=「伊賀市営業本部」)を載せています。「食」をテーマにした「ミラノ万博」(2015年)に出展して、伊賀の産品をアピールできました。その効果でしょう、今になって欧米系の観光客が増えてきました。これも、「決断」でした。
忍者の歴史や精神を継承するとともに、その認知度を国内だけでなく、世界へと広めるべく忍者を活かした観光誘客やまちづくりを進める目的で、「忍者の日」である今年2月22日午後2時22分に「忍者市」宣言を行いました。「ニンニンニン」の2月22日が「忍者の日」として、一般社団法人日本記念日協会に登録されています。
丸山 「決断」といえば、庁舎の問題についても経緯をお聞かせください。 市長 伊賀市は旧6市町村(上野市、伊賀町、島ヶ原村、阿山町、大山田村、青山町)が対等合併して誕生した自治体ですから、いずれの地域にとってもアクセスが一番良いところでなければなりません。実は市長就任後、庁舎建設計画を白紙撤回し、三重県伊賀庁舎隣地への建設を提案したところ、現在地での建設を主張する商工団体から反発を受けました。商工団体は住民投票を求めたのですが、規定の投票率に満たなかったため不成立。そういう紆余曲折を経て、県伊賀庁舎隣接地案に落ち着き、平成30年11月に引き渡しがあり、翌31年1月開庁の運びです。そして、現庁舎でのにぎわい創出に向けて、どのように活用していくかが課題です。交流型の図書館やカフェショップなどを備えた複合施設にする考えがありますが、有難いのは、三重大学が忍者に特化した大学院課程をここで開講してくださるとのことです。