株式会社 マイクロキャビン


パソコン黎明期のゲームソフト会社が事業適応 培った開発技術を生かし、遊技機ソフトへ展開

パソコン黎明期の1980年代に、ハードウエア販売・ソフトウエア企画開発を事業目的企業としての原点をもつ。
「ミステリーハウス」「めぞん一刻」などのゲームをヒットさせ、パソコンゲーム業界で不動の地位を確保した。
現在は事業環境の変化に適応しつつ、これまでに培った開発技術を生かせる遊技機ソフト開発へ事業展開している。
創業者の大矢知直登氏に代わり、社長に就任している田中秀司氏(61)に話をうかがった。

取り引き先で大矢知氏と出会い、意気投合始まったばかりのパソコンの世界へ

 マイクロキャビンは創業時から培ったゲームソフトウエア開発の企画力、技術力、ノウハウを遊技機用ソフトウエア開発に生かし、安定した品質のソフトウエアを遊技機メーカーへ提供している。
 2011年には東証一部上場企業のフィールズ株式会社の子会社となり、一層の組織力強化と安定した事業基盤を構築し、順調に事業を拡大している。
 田中は大学卒業後、松下電器産業の販売会社に就職した。「オイルショックがなかったら商社に入っていたと思う。海外に行きたかった」と回想する。「経営者、社長になろうという意識はなかった」
 田中は取り引き先の四日市市内の小売り電器店で、マイクロキャビン創業者となる大矢知氏と出会い、意気投合していく。当時、家電量販店が市場を席捲し始め、マーケットが変遷。時代の変わり目に際し、共通の危機意識があった。
 1970年代後半から80年代初頭、国内でパソコンが出回り始めると、大矢知氏はパソコンに強い関心を抱き、自分で仕入れ、販売するようになる。
 大矢知氏は1981年、マイクロキャビンを創業。ハードウエアの販売の一方で、ソフトウエアづくりに入れ込んでいく。まだパソコンの購入先が限られていた時代。四日市近郊で、時代に先駆けて興味を持ったパソコン好きの面々が大矢知氏のもとに集まるようになり、アドベンチャーゲームのはしりとなる「ミステリーハウス」が同社に持ち込まれ、販売された。
 田中は「まだ始まったばかりの世界で、何をやっても新しい。ソフトづくりで人も集まってきて、おもしろく、商売としてやっていた部分とそうでない部分があったと思う」と当時を振り返る。
 田中はマイクロキャビン創業から2年ほど経過した後、30歳の時に勤務先の会社を辞して、同社に合流。以後、大矢知氏と歩みを共にしてきた。

阿吽の呼吸で大矢知氏と役割分担「表には出ず、長続きさせるのが仕事」

 田中は大矢知氏について、「決断する時代の目をもっていた」と評する。一方で「大矢知さんと自分は持ち場を自然と分けてこられた部分がある。うまく回っていて楽しかった」と感謝し、「長続きさせるのは私の仕事」と事業の役割分担を語る。
 青年会議所や銀行など、「表向きの仕事」は主に大矢知氏が引き受け、「私は表には出る必要がなかった」。大矢知氏に対し、「お互い細かいことを話さず、阿吽の呼吸で任せられる」と信頼を寄せてきた。
 マイクロキャビンは「ミステリーハウス」に続き、アドベンチャーゲームなどを次々に開発、販売していく。シャープの電子手帳、ビジネスソフトウエアからエンタテインメントソフトウエアまで、幅広い開発分野で事業を行い、時代の潮流と共に事業内容を変遷させてきた。また、ACCS(一般社団法人コンピュータソフトウェア著作権協会)、CESA(一般社団法人コンピュータエンターテインメント協会)等の業界団体の立ち上げにも参加し、業界の発展にも寄与してきた。現在は遊技機ソフト開発に軸足を置く。

店頭公開を目指すも方針転換 公開企業と同様の意識と中見は必要

 2001年には資本金を2億2700万円余りまで増資し、店頭公開を目指した時期もあったが、店頭公開した場合に維持していく困難を危惧。会社を安定して存続させるために方針転換し、優良企業との共存の道を選択していく。
 2008年、ゲームソフト開発・販売会社「株式会社AQインタラクティブ(現在の株式会社マーベラスAQL)」の100%子会社となった。2011年には東証1部上場企業のフィールズ株式会社の子会社となり、事業基盤を安定化させ、順調に事業を拡大してきた。
 田中は「ゲームの宿命的なもので、ブームが来ても去るのは早い。エッセンスをもって次の時代にいけるよう、どんどん進化させていかなければならない」と難しさを説く。
 その上で、「なぜ生き残っているかというと、ゲーム時代に僕らは『ちょっとでも楽をして中身のあるものをつくりたい。プログラムを一からつくるのは嫌だ』と、開発エンジンをつくるということに金をかけてやっていた。その文化があるから、遊戯機開発も独自のシステム上で全てつくる。映像も音も光も可動物も全部、それを各専用ボードに落とすようにできている」と明かす。
 「もう一つ大切なことがあって、デバックと言ってプログラムの不具合を完全になくさなくてはならない。一番初めはビデオを巻き戻して見たり、不具合があると携帯で誰か呼び出すシステムをつくったりもしたが、夜も寝られなかった」と苦笑する。
 「ゲーム的なデバック手法では、すべてをチェックするのに何年もかかる計算になる。何とかして効率的に検知してやろうと考え、ハードウエア、ソフトウエアを開発、これが特許をとった。開発から最終工程の品質管理まで、ワンストップで一連の流れでできる。マイクロキャビンが生きているのは、このエンジンと文化があるから」と自負する。

企画から品質管理、ワンストップで独自の安全体制で特許も取得

 同社が実践する開発手法は、制作するだけではなく、設計段階から企画、デザイン、プログラムが関連性をはかり、内容の充実と同時に開発途中も品質管理する技術を導入。さらに開発完了後にも、特許を取得した独自の品質管理システムやツールを使用し、ソフトウエア管理を行っている。
 田中は「この業界では、『お客様に言われたら直す』というのが普通にあったが、それは違うのではないか」と指摘する。「昨今は、不具合があった時に企業にとって致命的な結末まで想定しなくてはいけない。認知されるのには時間がかかったが、この品質管理を含めた一連の考え方と制作手法がお客様とのパートナーシップの基礎となっている」と胸を張る。
 同社は、ゲームソフトウエア制作時代から蓄積した技術を基に、遊技機用ソフトウエア開発へ移行。さらにノウハウや経験を積み重ねたことで、企画開発から品質管理までのワンストップサービスが可能になった。業界では、開発工程を部分的に請け負う企業が圧倒的に多く、ワンストップサービスを行える開発会社は稀有という。
 田中は自社の強みを「方向性としては、LCC(格安航空会社)やビジネスホテルのように価格で価値を表現するつもりはない。ちゃんと人手間をかけて、ちゃんとチェックをして、良いもの、安全性の高いものをつくる」とPRする。

刻々と変化するビジネス環境 さらに新しいジャンルに進化を

 今後については、「パチンコ、パチスロももっと娯楽にしたいと思ってやっている。射幸性にかけてやっているのではなく、できるだけもっと、アミューズメントの方に引っ張り、また新しいジャンルをつくっていかないといけない」と展望。「何年かは今のベースのもので食えるかもしれないが、進化させていかないと時代の流れに遅れる。ベンチャー企業なので10年、20年同じところに座ってはいられない」と手綱を引き締める。
 マイクロキャビンで走り続けた30年余り。「もうちょっとできる、もうちょっとできるの連続で、一日の睡眠が4時間だった時期もあった」。海外への出張も多く、家庭をかえりみずに仕事に没頭した時代も長かったが、体が悲鳴を上げ、病気で歯止めがかかった。
 やはり家族は原動力。「病気をすると家族は大事だぞと、どこかで人間は気がつくようになっている」と身をもって痛感した。
 「家族を持つというのは、ある意味ステップアップするのに必要不可欠かもしれない。独り身では気付かないことは案外多いものだ。また、責任が増せば増すほど、耐えられなくなりそうになる時があるが、支えがあると伸びる」と家庭基盤の重要性を語る。
 後継に関しては「大矢知さんも私も、自分たちの息子や娘に会社を継がそうという意識はまったくなかったと思う。ベンチャー企業はそれをやってしまうとつぶれる」と吐露。自身の2人の子どもたちは、各々夢を追い、父親の仕事とは関わりのない道に進んでいる。
 「後継者は育っていると思う。皆どんぐりの背比べをやっているところもあるが、まだ成長している。良く言えば発展途上で、逆に言うと中途半端だ」と期待する反面、気をもんでいる。「基本の商品を作る事は出来るのだから後は意識次第」と発奮を促す。
 「ゲームソフトは60歳まではつくれない。新しい感覚の新陳代謝が必要。ここは東京、大阪ではなく地域的な問題がある」と地域性を憂慮する一方で、「人が集まらない、イコール、長いこと勤めてくれる人たちが多い。彼らはノウハウをどんどん貯めてくる。長いこと勤めてくれる分、蓄積型の商売の方がいいだろうと遊技関係にいけた」と利点も挙げる。
 ビジネス環境は、刻々と変化している。だが、同社はその変化をチャンスとして、顧客の求めるものをつくり、顧客に喜びを与えるパートナー企業を目指す。創業以来30余年にわたり、変わらぬ企業精神「We make adventure spirit」のもと、チャレンジし続ける決意だ。

株式会社マイクロキャビン

三重県四日市市芝田1丁目11番13号
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