首長インタビュー

四日市市長 / 森 智広

地元四日市の市長になり、まちの未来を切り拓いていきたい!という強い想いを持ち、あらゆる難関をブレイクスルーしてきた森智広氏。公認会計士出身で数字に強く、性格はいたって明るく元気。会う人を魅了するそのパワーで、四日市を活気ある住みよい街に変えてゆけ!

学校が大好きだった少年時代

 父は会社員で、母は小学校の教員でした。父は物静かで頑固なタイプで、母親は教師ということもあってシャキッとしてて、ハツラツ感がありました。共働きで祖父母と同居でしたから、子供の頃はおじいちゃんおばあちゃんと一緒に過ごす時間が多かったです。
 小学校の頃はクラスのムードメーカーだったと思います。みんなの前で面白いことやったり、イベントなんかも企画したり、クラスのみんなと友達みたいなタイプでした。小学校の時は児童会、中学・高校の時は生徒会を頑張っていました。みんなで一丸となって物事に取り組むことが凄く好きで、自ら先頭に立って盛り上げていました。目立ちたがり屋だったのかな。
 小学校、中学校の頃は教師になりたかったですね。母親の働く姿を見て憧れていたというのもありますが、自分自身、教師に向いていると思っていました。学校が大好きでした。毎日学校行くのが楽しいし、友達と遊ぶのも面白い、イベントや行事もめちゃめちゃ満喫していました。学校って素晴らしい場所。そういう学校を作るのは先生ですよね。自分が大きくなったら、僕みたいに学校が好きな子どもが沢山できるように、先生として学校をつくっていきたいなと思っていました。結局はその夢も変わっちゃいましたけど、今でも学生生活は最高の思い出です。
 中学校の時は野球部でキャプテンを務め、生徒会活動もやり忙しくしていた一方で、ラジオにハマりました。中間・期末テストの前だと夜中まで勉強するじゃないですか。その時、ラジオをよく聞きながらやっていました。オールナイトニッポンとか、ニッポン放送の伊集院光さんがやっていた番組とか。最初は、勉強やりながら息抜きの為に聴いていましたが、ラジオ聴くために勉強するって感じになっていきました。どんどん遅くまで勉強するようになって、テスト期間中はオールナイトニッポンの第二部まで聴いていました。ながら勉強なので、ダメなんですけどね。そして、好きが高じて自分でラジオ番組作っていました。自分でカセットテープに録音して番組作って、友達に聴いてくれ!って回していました。当時はめちゃ盛り上がっていましたが、今になっては聞くのも怖いですね。
 高校は四日市南高校に進学しました。受験した時は群制度の最後で、四日市高校に行くか四日市南高校に行くか分かりませんでした。高校に入ったらラグビーしようって決めていました。両方の高校にラグビー部はあったんですけど、四高の方が強かったので、四高に行きたかった。しかし、結局、南高に行くことになりました。そして、入学後にラグビー部の体験入部に行ったら部室に1年生が2人しかいないんです。先輩がいるので15人は超えるんですけど、同学年2人はつらいですよね。この先、先輩が卒業したらラグビーできなくなるんじゃないか?ってとても落ち込みました。しかし、待っていても部員は増えないので、俺達自ら動いて、仲間を増やしていこう!と、二人でめちゃめちゃ勧誘しました。面識があるないに関わらず、片っ端に同級生に声を掛けました。その熱心な勧誘が功を奏し部員がどんどん増えて、3年生の時には同級生が13人まで増えました。個性豊かなメンバーが集まり、良いチームが作れて3年間を終えることができました。強豪校ではなかったですけど、仲間とラグビーボールを追い掛けた日々はすごく楽しかったです。。

立命館大学に進学

 大学受験はかなり厳しい状況だったんですけど、なんとか滋賀県の立命館大学の理工学部に合格出来ました。本当は東京に憧れていたんですけど、結果として立命館に決めました。
 大学時代は色んなことをやってはっちゃけていました。とにかくプライベートはすごく充実していました。長期休暇となる春休みを利用して、毎年バックパッカーで世界旅行をしていました。友だちと行くこともあったし、一人で行くこともありました。当時『深夜特急』っていう本が流行っていて、それを読んでいると旅に出たくなるんです。最初の海外旅行はインドでした。インドってめちゃめちゃハードな国じゃないですか。一泊百円とかの安宿に泊まったり、ガンジス川で泳いで熱出して倒れたりとか、色々強烈な思い出があります。
 また、あるテストが終わった日にノリで、冊子の日本地図を適当にめくって指がのった場所にヒッチハイクで行こうぜ!ってことになって、青森県の十和田湖を目指したこともありました。4人で行くことになったんですけど、ゲーム性を持たせた方が面白いので2対2に分かれて競争することにし、お金は最低限の食事代のみ5千円しか持たないことになりました。そして、その勢いで大津サービスエリアに入っていって、運転手さんに声かけてヒッチハイクが始まるわけです。当時流行っていたテレビ番組「電波少年」の猿岩石の影響もあったと思います。結局、丸一日掛けて十和田湖に着いて、そこで野宿して帰ってきました。ヒッチハイク中は5千円しか持ってないので節約しなきゃならないんですけど、学生を乗せるとドライバーのおっちゃん達がご飯おごってくれたりするんです。だからお金はほぼ使わなかったですね。その後も、1人でヒッチハイクして四日市から四国一周して帰ってくるとかやっていました。人の温かさを直に感じることが出来ましたし、度胸も付きましたし、とても貴重な経験でした。単車に乗って北海道一周や原付で全国旅行等もしていました。学生時代だから出来ることを学生の内に徹底的にやったろう!ということを考えて日々過ごしていましたね。

学生時代のインドの旅

公認会計士の資格にチャレンジ

 大学の後半になると将来のことを考えなければならなくなりますよね。学生生活は充実していましたが勤勉でなく、明確な目標を持って研究に打ち込むという学生ではなかったので、大学を出た後の人生に対して大きな不安を持っていました。理系の仲間は大学院に進む奴が多かったし、文系の仲間は必死で就活していました。「じゃ、自分はどうしたいんだ?」と考えた時、漠然とですけど「将来独立して自らが主体的に考え動ける仕事がしたい」という思いがありました。しかし、その時には起業する具体的なプランも持ち合わせていなかったので、手に職をつける為に資格を取り、様々な可能性を広げようと考えました。じゃ、何の資格を取ろう?って考えていたところ、ラグビーチームのマネージャーが簿記1級を勉強しているという話になり、詳細を聞いている内に、会計という視点から企業経営を学べる簿記に興味を持ち始めました。私はそれまで経営学も学んだことはありませんでしたし、簿記なんて全く意識したことありませんでしたが、数学が得意で計算が早かったので、数字を扱う資格なら何かいけそうな感じがしたんです。そのマネージャーに「簿記の関係で一番難しい資格ってなに?」って聞くと、公認会計士と教えてくれました。そこで初めて公認会計士の存在を知りました。それで、頑張るなら全力で!目指すなら最高峰!という考えから、公認会計士を目指そうってなったんです。今考えたら、動機付けがかなり短絡的ですよね。4年間あまり勉強していない息子が、理工学部と全く関係ない公認会計士を目指すというので、父親からは大反対されましたが、ここで死ぬ気で挑戦しなかったら、自分の人生が中途半端なものになってしまうと思い、受験を決めました。
 大学4年の途中から勉強を始めて、卒業してからは四日市の実家に戻って名古屋の専門学校に通っていました。2年半程度で合格出来ましたが、後半は浪人生という立場でしたので精神的につらい日々でした。ただ「努力では誰にも負けない!」って自信はありましたので、気合いと根性で合格を掴み取った感じですね。

東京の監査法人で社会人生活をスタート

 公認会計士に合格し、働く場所を決める訳ですが、高校生の頃に夢見た「東京」で働きたいと思い、東京の監査法人に就職しました。東京で7年程、勤めました。監査法人は企業の監査がメインの仕事になります。企業の経営方針、戦略や財務手法、組織マネジメント等を学べました。最後の1年はコンサルタントとして、事業再生や企業再生の現場に身を置き、企業経営の厳しさを経験しました。とにかく、目の前の仕事に無我夢中で取り組んでいました。東京はとても楽しかったです。ずっと行きたかった場所でしたし全てが新鮮でした。この時期に妻とも出会って結婚しました。29歳の時です。

四日市に帰って政治家になることを決意

 公認会計士って、他の会計事務所や監査法人、民間企業やコンサルティング会社に転職し、キャリアアップを図っていく方が多いんです。監査法人の同期がそれぞれの選択をしていく中で、自分はこれからどうするんだ?この監査法人に残って上っていくのか?違う業種を選択し新たなフィールドで挑戦するのか?と、とことん考えました。人生において最も自分の将来について悩んだ時期だったと思います。様々な選択肢が浮かんできますが、なかなか自分が納得出来る答えが見つかりませんでした。人生を掛けられる仕事、心から打ち込める仕事は何か。悩みに悩んで気が付いたことは、その時の選択肢全てがこれまでのキャリアである公認会計士を前提にしたものだったんですね。公認会計士という資格が自分の選択肢を狭めているかもしれない。じゃあ、今まで培ってきた公認会計士のキャリアを全部白紙にして、自分が心からやりたいこと、全力で取り組めることって何だろう?ってゼロから考えてみたんです。そうしたら、子どもの頃から政治が好きだったことを思い出しました。
 思い起こせば、小学生の頃から国政選挙があるとテレビにかじりつき選挙速報を深夜までずっと見ていました。子どもながらに「政治が世の中を動かしている」「選挙によって国の方向性が決まっていく」という感覚はあり、政治のダイナミズムに魅了されていました。中学・高校・大学の頃も政治には興味はあり、憧れてはいましたけど、政治の世界ってすごく縁遠く、自分と違う世界で起こっているものと捉えていて、政治家を目指すという選択肢は持っていませんでした。しかし、30歳を超え、改めて自らの将来を考えた時に、政治の世界に挑戦したいという気持ちがどんどん大きくなっていきました。
 それと、いずれは大好きな地元四日市に戻り、地域の為に働きたいっていう想いもありました。これらの思いを一つ一つ整理していき「地元に戻り、四日市市の政治に携わりたい」「四日市市の未来の為に働きたい」という結論に至りました。その頃から、いつかは、自らがリーダーシップを取ってまちづくりに取り組める市長になるという強い思いを持っていました。それで四日市に戻り、次の市議会議員選に立候補することを決めました。
 10年以上も離れていた人間が、急に四日市市に戻り、10ヵ月後に選挙に出るなんて、普通に考えたら無謀ですが、でもその時は、この機会を逃すと絶対に後悔するという思いから、とにかく前へ突き進みました。
 四日市市に戻り、市議会議員になることに妻は反対しました。東京生まれ東京育ちなんで、地方に住むのは抵抗があったと思います。それに会計士と思って結婚したのがいきなり政治家になるって、妻にとっては詐欺みたいな話ですよね。議員に当選する保障もありませんし。地元に帰りたいということは前から言っていたんですけど、ずっと先の話だと思っていたみたいです。半ば強引に連れ帰ってきたんですが、あの時、妻が受け入れてくれなかったら、独り身になっていたかもしれないですね。かなり険悪になったときもありましたから。妻には本当に感謝しています。

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