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有限会社角屋社長 / 伊藤裕司

伊藤 裕司

理系の大学で培った科学的・合理的な手法でハム、ウインナー、ベーコンを作るという、従来の「職人」さんとは一線を画する「角屋」の伊藤裕司社長。大手企業のサラリーマンだった彼の、肉屋としてのチャレンジの軌跡を辿ってみた。

-まず、角屋の創業の経緯について教えて下さい。

 私の祖母の出身が桜の農家の娘で、私の祖父に嫁いでこちらで鶏肉専門店として開業したことが始まりと聞いています。当時、農家ではお祝い事があると飼っていた鶏をさばいて頂くという文化があって、祖母は近隣の農家で飼っていた鶏を購入し、さばいてここで販売を始めたのが「かどや」のはじまりです。創業は昭和5年ぐらいですから、今年で91年目になります。
 私の父は当時珍しく明治大学商学部卒で日刊工業新聞に勤めていたんですが、一人っ子だったので親に「戻ってきて欲しい」と言われ、昭和31年、日刊工業新聞をやめて家業を継ぐことになりました。昭和54年、父は店舗を改装。鶏肉専門店から牛肉、豚肉も扱う総合精肉店になりました。

-子供の頃はどんな子供さんだったんですか?

 小さい頃は悪ガキで、目立ちたがり屋で大将になりたがり屋だったかな(笑)。学級委員、生徒会の役員なんかもやったりして、いまだに中高同窓会の代表幹事をやったりしています。人と集まるのが好きなんです。中学生のときは3年生で吹奏楽部の部長になって三重県大会で優勝しました。高校ではサッカー部に入るも続かず、帰宅部で映画ばかり観に行ってました。当時、名古屋で1本立てのものが四日市では2本立て350円くらい。土日は必ずどこかの映画館にいましたね。
 理系に進んだのは中学の頃から理数系が得意で、工学系・物理系の学部にどうしても行きたいと思い、立教大学理学部物理学科に進みました。学生時代は勉強より、体育会の航空部の主将としてグライダーに乗ってばかりいました。
 商売のことを考えると商学部のほうがよかったのかもしれないですけど。考え方が理系なので、筋立って立てて計算し結論を出す、結論に対して考える、反省する、考察する…。理科の実験と同じような手法を商売にも取り入れているように思います。息子も理系で工学部で、彼もやはり理論で考える理系的経営ですね。ハム・ソーセージの製造に関しても勘ではなく、今日は湿度が多い、乾燥している、温度が高い、といった諸条件を元にスモークの時間を変えるといったやり方をします。製品の統一化といいますか、データを並べて「今回はこの作り方がいいんじゃないか?」という、勘ではなく自分たちが考えた理論に裏付けされた製法で作っています。そういう意味では理系で学んできて良かったんじゃないかなと思います。

-勤めていた会社を退職して家業を継ぐことになったいきさつは?

 当時私は大学を卒業して、東京エレクトロンという半導体製造装置の会社で働いていました。東京エレクトロンでは営業をやっていたんですが、入社4年目に父親が病気で倒れ、家業を継ぐためにサラリーマンを辞めて菰野に戻ってきました。昭和61年のことです。でも故郷に戻る以上は「ただ単に家業を継いでそれなりにやっていけばいいや」という気持ちは全くなくて「普通の肉屋さんでは終わりたくない」という意識が常に頭にありました。
 営業経験もあったので、卸部門強化のため営業に力を入れました。ちょうどバブルの頃で、菰野町にどんどん宿泊施設やゴルフ場が出来てきていました。いろんな人のつてを辿って営業に行って仕事をもらいました。以前は店売り中心だったのですが、卸売りの売り上げも相当伸ばしました。
 病気で倒れた父は、私が帰ってきたということで体も精神的にも楽になったのか、すっかり良くなりましたね。最後は75歳で亡くなりましたけど。

-平成4年に店舗を改装されました。そのあたりの経緯を教えて下さい。

 私が生まれ育った家は、前は財界のお金持ちの別荘として使われていた立派な家だったんですが、ある日、お世話になっている方に言われたんです。「お前は御殿のような家に住んでるくせに、金を稼ぐところはあばら屋だ。逆だろ、金稼ぐところに金かけないでどうするんだ」と。確かにそうだなと思い、父親と相談して店を改装することにしました。
 東京からコンサルタントを呼んで、その人が色々指針を示してくれたんですが「デリカやお惣菜に力を入れるべきだ」と強く言われました。なので、店を改装すると同時に「新鮮ミート美味デリカ角屋」としてお肉だけじゃなく手作り惣菜も力を入れ、サラダから揚げ物から中華惣菜から色々扱うようになりました。 
 その頃は定休日の月曜になると、東京の惣菜屋さんをあちこち見に行ったり、名古屋のお肉屋さんへお邪魔したりとかしてましたね。
角屋

-自家製のウインナーを作ることになったきっかけは?

 晴海埠頭で食肉産業展がありまして、自家製ウインナーのデモンストレーションをやっていたんです。スモークをかけないボイルだけで作る白いウインナーを試食させてもらったんですけど、すごくこれがおいしいんです。「うちでこのウインナーを扱いたいからどこで買えるか教えて下さい」とお願いすると「うちはウインナーを作る機械のメーカーなのでウインナーを売ることはできません。伊藤さんにこの機械を買って頂いて、伊藤さんが作るんです」と言われました。店では営業や販売ばかりやってて包丁もまともに持ったことがない。困ったなあと思って半ば諦めました。
 次にドイツのスパイスを扱ってる会社のブースに行ったんです。そこも同じようにスパイスを使ってウインナーを作っていて、これもすごく美味しかった。でもその会社はスパイス屋さんで、ウインナー屋さんじゃない。「どこかこのウインナーを売ってくれる所はないですか?」って聞いたら、その会社(ヘラスパイスジャパン株式会社)の社長の小島さんに「いや、伊藤さんあなたが作るんですよ」と同じことを言われたんです。「ズブの素人の私が出来るわけないじゃないですか」って言ったら、小島さんは言いました。「私が行って教えます。私は10年くらいドイツで勉強して、販売代理店の権利をとってドイツのスパイスを販売するビジネスを始めたところなんですが、それと並行して自家製ハム・ソーセージを売る店舗を育てていこうと考えているんです。ちゃんと教えますから、伊藤さんやってみませんか?」
 機械の値段は、腸にウインナーの生地を入れる充填機が100万~150万、ウインナーを練るための機械が3百万~4百万、スモークハウスが1千万弱。トータル1千5百万くらいの投資になる。非常にプレッシャーもありましたが、その頃はゴルフ場、旅館、ホテルの卸の部門が伸びてたものですから、思い切って買うことにしました。平成7年1月、小島さんの会社から機械を購入しまして、小島さんが1月途中から3月終わりまで、毎週月曜昼から土曜日夕方まで旅館に泊まって教えにきてくれました。3月の終わりに保健所から食肉製品製造業の免許の許可が下り、平成7年の3月、ようやくオープンにこぎつけました。
 当時はバブルだったので、自家製のソーセージはホテルや旅館、ゴルフ場などのクライアントさんにたくさん買ってもらえました。いい時期に始めたなと今は思います。 

-コンテストで金メダルを取りましたよね。出品しようと思ったきっかは?

 バブルが崩壊した平成12年を過ぎた頃から、ゴルフ場はコンペもなにもないし、ホテルや旅館も次々と廃業していって、卸部門の売上がどんどん減っていったんです。困ったなと思っていたその頃、オランダとドイツのコンテストでうちのウインナーが金メダルを獲ったことが新聞に載ったんです。新聞チラシをいれても全然売れなかったのに、金メダルのことが新聞に載ったとたんお客様がたくさん来て下さって、ギフトもどんどん売れて大忙しでした。
 コンテストに出品したのは、小島さんから「オランダでコンテストがあるから出されたらどうですか?」と言われたからです。金メダルといっても優勝という意味ではないんですが、200の採点項目がすべて満点じゃないとダメで、そんな簡単には取れないものなんです。菰野豚という柔らかくて甘みがあって豚臭くない豚を原料にしたのが良かったのかもしれません。原料にこだわって妥協なくやっていたのと、理系の感覚で自分なりに考えてやってたことが成功の秘訣だったのかなと思います。

-バブル前と今とで、売り上げはどう変わりましたか?

 以前は卸売りが2、店売りが1という割合でしたが、今はコロナの影響もあって卸売りが2,店売りが8ぐらいかな。卸は一ヶ所受注すれば大きいけど、なくなったときの痛手も大きいですよね。そういう意味では、店売りの方が売り上げは安定します。でもその頃からずっとお付き合いさせていただいているお客様もいて、その方たちには言い表せないくらいの感謝の気持ちでいっぱいです。

-息子さんが入社されましたよね。これでひと安心という感じですか?

 平成20年、息子の尚貴が東北大学から角屋に入社しました。さっそく息子を東京の知り合いのところに修業に出し、その後、ドイツに修業に行かせたんですよ。それで修業が終わり、息子もコンテストで金メダルを獲ってきました。
 私の仕事の仕方は「朝早くから夜遅くまで頑張る」って感じでしたけど、息子は違いますね。製造のスピード感が違う。さっさと仕事を終わらせて後はオフ!っていう感じがドイツ人的だなぁと思います(笑)。まあ、いいことだと思います。
 思い返せば毎日が必死で余裕がなかったんですが、息子が帰ってきてくれて少し時間が出来たので、社会貢献の意味で四日市西ロータリークラブに3年ぐらい前に入らせていただきました。会員さんは若い方でも企業活動も社会貢献も一生懸命されているという感じで、私も遅ればせながらやっていければいいなと思ってます。 
 仕事面では「息子にいかに教えていくか?」ということでしょうかね。技術面では教えることはないんですが、お客さんとのコミュニケーションの取り方とか、経営者として危機に陥ったときにどう踏ん張るかとか、そういう精神的なことを教えていきたいです。

-仕事やプライベートで、この先5年、10年ぐらいの目標などありましたら教えて下さい。

 やはり健康が一番ですね。仕事面ではもう少し色々なことにチャレンジしていきたいです。今は製造直販だけですけど、ある程度、製造部門を独立させ、ネット販売の拡充や別の場所への出店も考えています。ここを拠点に、自分たちの見える範囲で、最低でも現場に週2回見に行けるような店舗数でやれればいいなと思います。
 プライベートではせめて年に数回海外を訪れて、その時だけはのんびりできればいいですね。趣味のゴルフは続けていきたいです。あと、中学・高校の同窓会代表幹事をどんどんやって、人と会う機会を作っていきたいです。僕は人に誘われたらなるべく断らない、人となるべく会う、ということを常に心掛けています。店にもなるべく出てお客さんに説明して「また感想聞かせて下さい」って言うようにしてますね。

-最後に、この仕事をして良かったと思うことがあれば…。

 美味しいものを食べて眉間にシワが寄る人はいませんよね。試食でもみんな笑うんです。僕は笑顔のキャッチボールっていうんですけど、その時はいつも「食べ物の商売っていいな」と思います。お客様から「おいしかったからお歳暮に使いたい」とお電話いただいたりすると、本当にうれしいですね。

伊藤裕司氏プロフィール

1957年4月生まれ。四日市高校、立教大学理学部を卒業後、東京の大手半導体製造装置メーカーのセールスエンジニアを経て、家業である「角屋」に帰任。三代目に就任後の1995年1月より自家製ハム・ソーセージ・ベーコン作りを始め、学生時代やサラリーマン時代に海外で食べたハム・ソーセージの味を目指して、試行錯誤の連続の中から多くを学び、スパイス代理店社長の勧めでオランダのコンテストに出品したところ、全3品ともに金メダルを受賞。自身の製品が世界にも通じることに自信を持ち、その後もヨーロッパの国際コンテストで数多くの金・銀・銅メダルを受賞。現在も頑なに地元菰野町の新鮮素材、ドイツのスパイス、岩塩を主原料として手造り製法にこだわり続ける。2016年のG7伊勢志摩サミットでは、9品が参加国の政府関係者・大使の滞在ホテルで食事として採用される。

有限会社 角屋

〒510-1233
三重郡菰野町菰野1081-2
TEL 059-393-2041

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