三重の歴史

戊辰戦争150年記念「戊辰戦争と桑名藩」

幕末に活躍した桑名藩。大政奉還150周年を記念した昨年の特別展「幕末維新と桑名藩―一会桑の軌跡―」(10.21-11.26)は盛況を博した。数々の展示品には武家政権の終焉と近代日本の幕開けに対峙し困惑した桑名藩士たちの動揺が宿り、来館者もまた、時代に翻弄されつつ動いていく「歴史」というものの一端に触れたことだろう。企画した桑名市博物館の杉本竜館長にあらためて、幕末期における桑名藩の立ち位置と近代以降のまちの成り立ちについて聞いた。

はじめに

 桑名藩の大名家は「松平家」とされるが、実際に同藩を統治したのは寛永12年(1635)に藩主となった初代定綱(さだつな)と2代定良(さだよし)までで、宝永7年(1710)3代定重(さだしげ)が越後高田(現在の上越市)へ移封となって以降、寛保元年(1741)7代定賢(さだよし)はさらに陸奥白河へ移り、「寛政の改革」で知られる9代定信(さだのぶ)まで他藩を統治していた。その後、文政6年(1823)に10代定永(さだなが)が再び桑名へ移り、13代定敬(さだあき)まで桑名藩主を務めることになる。3~39代にわたり松平家に代わって桑名藩を支配していたのは「別の松平家」(=「下総守家」)。つまり、2つの松平家が藩主を務めていたのである。

 松平家は於代(おだい)の親戚筋にあたる。於代は松平広忠との間に家康をもうけ、久松家へ再嫁して3人の子どもにめぐまれた。よって、3人は家康とは異父弟の関係にあたる。このうちの一人が定勝(ルビ:さだかつ)で、前述の定綱、定良の祖。定勝にはほかに伊予松山家をつくる定行(さだゆき)と伊予今治をつくる定房(さだふさ)の子があった。

 桑名は東海道枢要の地であり、木曽三川の下流域、つまり、道と川の結節点であることから重要視されていた。木曽あたりで切り出される材木を下流域へ運んで貯木し、濃尾平野で獲れた米を山間部へ運搬するという、「衣」と「住」に関わる物資の集散地だったわけで、こうした風景に足を止める旅人は多く、経済的に潤ったことが想像される。当時、桑名から京都まで歩けば3日間の距離。同程度の圏内で十万石程の領地を所有している大名は非常に少なかった。「いざ京都!」の時には軍事的な応援も期待されていた。

 開国による貿易の影響で物価が急騰して庶民の不満が高まり、朝廷も幕府に攘夷の実行を求めたことから、攘夷派が勢いづいた。京都では攘夷強硬派の横行が続き、治安を守ることが大きな課題となった。

桑名藩主、京都所司代になる

 京都とのつながりができてきたのは9代定信の時。ただし、老中になったのも定信だけなら、京都所司代にいたっては誰もなったことがない。定信の後、定永、定和(さだかず)、定猶(さだみち)と続くが、定和は30歳、定猶は26歳でそれぞれ死去。娘の初(はつ)に養子をとらせ、婿の定敬(さだあき)を13代とした。定猶まで男系が続き、このとき初めて婿養子をとった。定信は『養子御心得』(※写真)を書き残していたが、これまでは実子が続いていたため必要がなかった。このとき、初めて養子に迎えた定敬に対して「心得」を求めたのである。定敬は御三家・尾張徳川家の一族であったが、それには構わず、松平家のルールに従うよう求められた。会津藩に養子に出た兄の容保(かたもり)は京都守護職を拝命して将軍の警備に当たっていたが、桑名と京都は近く、定敬も勧められるまま断れず、京都所司代に就く。以後、兄の容保とともに京都の治安を担って行く。そして、尊王攘夷派が京都守護職らを暗殺するとのうわさの下、市中見回りを強化していた新選組に組みする形で池田屋へ駆けつけ長州藩の志士に切りかかった「池田屋事件(1864)」や、尊王攘夷を唱える長州藩と会津藩・薩摩藩を中心とする幕府勢力が京都御所で激突する「禁門の変(1864)」に見るとおり、桑名藩は会津藩をサポートするべく関わって行くのである。

戊辰戦争始まる

 幕末の京都においては、一会桑政権(ルビ:いちかいそうせいけん)―徳川慶喜(禁裏御守衛総督・一橋徳川家当主)、松平容保(京都守護職・会津藩主)、松平定敬(京都所司代・桑名藩主)―が主導権を握る。そのうち、薩摩が一橋慶喜と対立するようになり、やがて大政奉還へ。会津藩、桑名藩はもちろんこれに反対したが、押し切られた。慶喜が二条城で大政奉還を宣言し将軍の位を捨てたとはいえ、徳川家は700万石の大所帯。加賀前田家でさえ100万石だから、その規模や推して知るべしである。したがって、大政奉還は慶喜にとって優利であったことから、薩摩藩は「辞官納地(じかんのうち)」(内大臣を辞めてもらい、領地700万石を没収)を要求。慶喜は京都に入って新政府に参加するところまで話はまとまるが、薩摩藩は憤懣やるかたない。ここで衝突した。「鳥羽・伏見の戦い」の勃発である(1868)。薩摩を討つという慶喜の宣言を受けて、藩主定敬は京都にいる藩士に上京を告げ、同時に京都へ藩士を送るよう国元へ派遣を送った。翌日、桑名・会津・新鮮組などの旧幕府軍は大阪城を出発し、鳥羽街道を通って京都入りを果たす。この戦いで桑名藩は大砲「ライフルカノン砲」を準備した。溝を螺旋状に切り、飛距離と命中度を飛躍的に向上させた最新式であった。しかし、「鳥羽・伏見の戦い」は旧幕府軍の敗北に終わる。

官軍と戦うか降伏するかを、くじ引きで決定

 「鳥羽・伏見の戦い」に勝利した新政府は慶喜追討令を出し、東国に軍を進めた。陸上部隊「東海道鎮撫総督軍(ちんぶそうとくぐん)」が桑名城へ攻めてくる。ところが、対戦部隊は鳥羽・伏見に行かせているので桑名には誰もいない。残るわずかの戦力で闘うのか?殿様を追って江戸へ行くのか?降伏するのか? 3日間の間に決めないといけない。しかし、決まらない。そこで、籤を引いて決めることになった。結果は「東下り」。殿様を追ってこぞって江戸に下ることに決まった。しかし江戸まで歩いて2週間。いくらなんでも無理だ。降伏するしか道はなかった。その印として、年端も行かない子を人質に出すのは忍びなく、定教(さだのり)を人質にとらせて四日市の法泉寺に入れた。この英断を下したのは定信の曾孫、珠光院(しゅこういん)であった。こうして桑名の戦乱は回避された。
 しかし、これらの処分に不服の幕臣たちは行動を起こす。桑名藩では立見尚文、新選組には土方歳三がいた。立見は「雷神隊」を組織し、土方歳三らとともに宇都宮城を陥落させ、長岡では山県有朋率いる奇兵隊を打ち破った、桑名藩が生んだ偉人の一人。西南戦争、日清戦争、日露戦争でも活躍した。桑名藩はその後、会津若松や戊辰戦争の最後となる函館の五稜郭でも政府軍と戦うことになる。
 定敬が明治2年に降伏して、ようやく桑名藩の戊申戦争が終る。その後、定敬は日光東照宮の宮司になり、戊申戦争で亡くなった藩主たちの霊を弔う。人質になった定教は許された後、明治政府の外務省で働いた。戦いに負けた桑名藩は明治政府には重用されていない。

戦乱後の復興に向けて

 新政府の誕生で東海道と宿場が閉鎖され、消費者である武士階級が無くなったことで、まちの活力が失われた。さらに四日市港の誕生が桑名の衰退に拍車をかけた。萬古焼やタイルも海外輸出を考え、生産拠点を四日市に移した。残ったのは鋳物くらいで、明治期において桑名は斜陽化していった感が否めない。教育に関しても同様、津に「旧制一中」、富田に「旧制二中」がつくられ、桑名は除外された形だ。
 江戸時代には確かに、材木と米相場で儲けた商人が多かった。「桑名の殿さん、時雨で茶茶漬け」という座敷小唄があるが、歌中の殿様とは明治・大正期、米相場で儲けた成金のことで、料亭で豪遊した桑名の成金が宴会の最後に故郷名産の時雨蛤の茶漬けを食べた様を歌ったものである。歌われた繁栄ぶりもすでに昔語りとなっている。
 しかしながら、戦場にならなかったことで、このまちが激しい収奪や身内の不幸、大きな混乱から遠ざけたことも事実。そして、戦乱後の復興が遅れたのは、政治的な変動を免れたゆえの安穏さからか、現状を変えたいという覇気や闘争心に欠けていたこと原因の一つであるだろう。
 「戊辰戦争150年」に対する桑名の住民の意識は低く、これも幸いにして戦場にならなかったことの反証であろう。この点、戦場になった会津とは心情的に大きく異なる。

桑名の原点

 桑名藩初代藩主・本多忠勝(1548-1610)は17世紀初頭、海浜近くへ桑名城を築いた。関ヶ原の戦い直後である。本来防衛拠点であるべき城を往来の激しい東海道に築き、大河に近く、危険でありさえする場所に築造したのは、大戦直後ゆえ今後戦は起らないだろうとの想定の下である。将軍が京へ上る際、悪天候の場合に通過地点あるここ桑名に宿泊するための御殿として機能させたらしい。そこで、幕府にとって信頼のおける松平家や本多家を配置したのだった。尾張の熱田宮にも同様の御殿が造られており、セットで築造されたことが考えられる。

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