佐野貴信(株式会社プラトンホテル社長)

自分が従業員として働いていたホテルのオーナーになる。 このドラマのようなサクセスストーリーを実現した男、佐野貴信。 若い頃から「30歳になったら独立する」と決めていた彼のベクトルは、 時に困難に直面しても、少しもブレなかった。

予定どおり30歳で独立

 佐野がプラトンホテルの前身であるプラザホテルアネックスに就職したのは21歳の時。そこで9年間勤めた彼は、30歳の時、ホテルを辞め有限会社サノプランニングを設立した。業務内容は広告代理業やイベント企画など。
 佐野は以前から「必ず30歳になったら独立する(※1)」と決めていた。30歳になった時、佐野はプラザホテルアネックスの社長に「独立するから、ホテルの広告宣伝を一手に引き受けさせて欲しい」と頼んだ。佐野の独立志向を応援してくれていたプラザホテルアネックスの社長は、この申し出を承諾。佐野プランニングはプラザホテルアネックス専属の広告代理店として業務を開始した。ラッキーな船出だった。
 しかし平成10年、プラザホテルアネックスが売却され、ザ・プラトンに変わった。当然、広告の仕事もストップになった。仕事が激減し、サノプランニングは次第に債務超過となっていった。
 「今思うと、独立した時は甘かったですね。事務所と事務員さんがいたら商売できる、みたいに考えてました(笑)。だから苦労しましたけど」。
 このままでは倒産する-焦った佐野は、違うビジネスをやろうと考えた。目をつけたのは日本料理店だった。佐野はプラザホテルアネックスに就職するまで飲食店(※2)でアルバイトをしていたため、飲食店に興味があった。「いつかは飲食店をやりたい」という漠然とした夢を持っていた。やるなら今しかない、と彼は思った。

起死回生の「たまゆら」オープン

 いい物件があった。前は居酒屋で、居抜きで借りることができる。保証金が500万。内装・設備その他で500万。開業するのに1千万必要だった。しかし佐野が集めることができたお金は100万円。まったく足らなかった。
 佐野は大家さんに「保証金を分割にして欲しい」と頼んだ。しかし、そんな申し出が通るはずがない。佐野はあきらめなかった。大家さんの元に何回も通い頼み込んだ。ついに大家さんは根負けし、保証金を5年間の分割にすることに同意してくれた。設備は中古の物をかき集めてなんとか揃えた。知り合いの料理人に頼んで料理長になってもらった。こうして日本料理の店「たまゆら」は開業にこぎつけた。平成13年、佐野が35歳の時だった。
 「当時、安い居酒屋や高級な日本料理店はありましたけど、その中間がなかったんです。ですから、3千円ぐらいの料金で個室で和食を提供するお店を作れば当たるんじゃないか?と思いました」。
 オープン当初は、佐野のホテルマン時代の人脈で多くの知人友人が来店してくれた。しかし、しばらくすると客足はとだえた。「お客さんに来てもらうためにはどうすればいいんだろう?」。佐野は必死で考えた。高いと言われていた値段を少し安くし、同時にビラ配りを始めた。仲居さんが着物を着て佐野が料理人の格好で、四日市駅前で毎朝ビラを配ったのだ。ビラを貰った人が来店してくれるようになり、お客さんは徐々に増えていった。
 「たまゆら」が軌道に乗ると、佐野はすぐ2号店、3号店と店舗を増やしていった。「たまゆら」以外にも焼酎バー、創作料理の店、串焼きの店、居酒屋などを半年に一軒というペースでオープンさせていった。新店の料理長は既存店の料理長からピックアップして据え、既存店のナンバー2を料理長に昇格させるというやり方を取った。料理人を外部から呼ぶというやり方はしなかった。
「ウチの料理人は皆、よく働くし努力を惜しまない。今の自分があるのは、彼らが頑張ってくれたおかげだと思います。料理人の方はアウトローの人が多かったりするじゃないですか。でもうちの料理人たちはほんと真面目です。ですから逆に、ウチのカラーに馴染めない人は辞めていきますね」。
 佐野は次々と出店し、採算が合わないとすぐ店を閉めた。結果は3勝1敗ぐらいだったが、店舗数は確実に増えていった  飲食業が成功した理由を聞くと佐野はこう答えた。
「お客様第一、という意識が徹底しているんだと思います。『お客様第一』というのはどこのお店でも同じですよね。でも経営者や店長はできても、いち社員やアルバイトまで徹底している店は少ないと思います」。

神戸店の失敗

 順調だった飲食店事業がつまづいたのは、1号店オープンから5年後の事だった。佐野は神戸に「たまゆら神戸店」をオープンさせた。いつか県外に出店したいと考えていた彼の夢が叶ったかに見えた。しかし神戸店はオープン当初からずっと赤字だった。黒字になる見込みもなかった。四日市の6店舗の利益をつぎ込んでなんとかやっていたが、それも限界だった。しかし神戸店は5年間の定期借款という契約で、5年以内に店を閉める場合、残りの家賃を全額払わなければならなかった。
 「これが続けば倒産するかも?という状況でした。でも大家さんに『次に入るお店が見つかったら少しの違約金を払うだけで出してあげる』と言われていまして、それが運良く見つかったんです。で、何とか切り抜けることができました」。
 このピンチを乗り切った佐野は、その後もは出店と退店を繰り返しながら、着実に店舗を増やしていった。また連帯保証人になって多額の借金を負ったこともあったが、これも分割でなんとか返済した。

ロワジールホテルのオーナーに

 平成22年、佐野に「ロワジールホテルを買わないか?」という話が舞い込んできた。
 「たまたま友人で不動産屋を経営している人と飲んでいた時、彼が『ロワジールホテルを買おうとしたけど買えなかった』という話をしてくれたんです。その時、初めてロワジールホテルが売りに出てることを知りました。困ったなって思いましたね。ホテルには『たまゆら』『ワバール』の2軒出店していて、どちらも基幹店だったから、オーナーが変わるのは不安じゃないですか」。
 その不動産屋の社長は佐野に言った。「佐野社長、買えばいいじゃないですか?」。「買えるもんなら買いたいわ!」と佐野は答えた。その時は冗談だと彼は思っていた。
 一週間後、その不動産屋さんから連絡が来た。「先方が佐野社長なら売ってもいいっていってる。一度会ってみないか?」。「買うとしたら何億ですよね。そんなお金あるはずがないじゃないですか」と佐野は答えた。しかし「金はなんとかなるかもしれない。会うだけ会ってみろ」という不動産屋さんの勧めで、佐野はロワジールホテルのオーナーと会った。
 「会って話すうちに、心から欲しいと思えてきたんです。もちろんそんなお金は無かったですよ。でも運良く銀行が融資をしてくれることになったので、思い切って買いました。ホテルを買おうなんて考えたこともなかったから、あれあれ?って感じでした(笑)。でもホテルに対する執着は凄くありましたね。自分ほどこのホテルのことを知っている人間はいない、と思ってましたから」。
 佐野がオーナーになり、ロワジールホテルはプラトンホテル四日市と名前を変えた。当初は宿泊客が減ったが、次第に売り上げは戻っていった。
 「まだホテル経営を始めて2年ですが、やってみるとなかなか難しいというのが正直な感想です。ホテルの従業員も込みで買ったんですが、ロワジールホテルは全国チェーンの大企業。でもサノプランニングは地方の小企業。社員のカルチャーは全然違いましたね。保守的だと思うところも多かった。でも会社が大きい分、優秀な人材が多いなとも思いました」。
 今後、どんな風に事業を展開して行きたいか?と聞くと、
 「飲食部門では、海外出店に興味があります。和食はどこの国でも人気があるんです。ただ残念なのが、日本人が経営してる和食の店って案外少ないんです。食べてみて『こんな味でいいんだろうか?』って思うことも多いですね。ホテル部門については、まだスタートしたばかり。これからです」。

企業経営者は結果でしか見られない

 自分が働いていたホテルを買った-この佐野のサクセスストーリーは、三重の会社経営者の間でも話題になった。『時の人』といった感じである。でも彼は「運が良かっただけ」と言う。
 「私たちは結果でしか見られません。この先、もし会社を潰したら『分不相応にホテルなんか買うからだ』と言われますし、事業を発展させたら『あそこでホテルを買ったのが良かった』と言われます。結果だけなんです。神戸に出店して撤退した時も何人かに言われましたよ。『絶対に失敗すると思った』って。悔しいですけど、他人はそんなもんです。だからこうしてサクセスストーリーらしきものを語れるのも、今うまくいってるからだけです。でも、今まで自分で『こうしたいな』と思ったことは、少し形が変わってもだいたい実現してきました。それは自信になりましたね。苦しい時もありましたけど、なんとかなるんです。他の経営者の方と話しても、そう言われる方は多いですね。何とかなる-って」。

※1)佐野はプラザホテルアネックスに勤務していた時から、四日市青年会議所(JC)に所属していた。一介のサラリーマンでJCに入る人は珍しい。佐野が若い頃から強い独立志向を持っていたことがわかる話だ。
※2)佐野はこの飲食店チェーンの社長から影響を受けた。その社長は佐野に「独立するためには、人、物、金、どれかひとつ必要だ」と教えた。「人脈を作ろう」と思った佐野は、名刺を1,000枚集めようと考え、実行した。
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