PERSON~三重の人物紹介

ヘルプマーク、アンバサダー / 田中麻莉絵

田中まりえ

病気を発症、余命5年と告げられる

 病気を発症したのは2014年でした。クリニックで健康診断を受けたんですけど、3日後に連絡がきて「すぐに総合病院に行ってください」と言われました。総合病院で1か月ぐらい検査入院をして、病名が決定したのが2014年の8月、31歳の誕生日の前日でした。病名は骨髄異形成症候群。余命5年と言われました。私は今6年目で、今まで白血病も発症しないで生きてこれました。でも主治医の先生は完治とか寛解とか言ってくれないんですよね。治ったように見えても急に発症するとことがあるので「わからない」としか言えないみたいです。
 入院してすぐ日記を書きはじめたんですけど、日記に残っている感情を見ると、自分がそんな状況になっても精神的に崩れることはなかったですね。誕生日にたくさんの人がお見舞いにきてくれたとか、厳しかった両親がコンビニで私の好きなシュークリームを毎日買ってきてくれるとか、それだけのことがとても嬉しかったです。
 それが崩れたのが、11月に不正出血が止まらなくなってきた時です。その頃は結婚の予定とかなかったし、結婚もあきらめていました。でも、もし人生の中でそういう機会があったら、子供が産めなくなるのは嫌だなと思って、卵子の凍結をしたいって申し出たんです。そうしたら先生に「今のまりえさんの体では、その出血にさえ耐えられないかもしれない。だから処置をすることができない」と断られたんです。自分は自民党の水田先生が言うような「生産性のない人間」になってしまったのかぁ。どうがんばっても結婚して子供を産み育てるってことはできないんだなーって。その時は、余命宣告をされた時よりショックでした。

骨髄移植はしないと決める

 その後、ありがたいことに日に日に血液数値が良くなっていったんです。そろそろ骨髄移植をするかどうか?を考える時期になったんですけど、先生と相談して骨髄移植はしないことにしました。血液がんって骨髄移植をすれば治るようなイメージありますけど、そんな簡単なものじゃないんです。移植が原因で死亡したり、衰弱したり、他の病気を発症したりすることも多いんです。だから移植を受けた後、今のこの状態に戻れる可能性は思ったほど高くないことを、私は理解しました。「これだったら今、骨髄移植をしないほうがいい。やるべきときは先生が必ず教えてくれるはず」と確信したので、骨髄移植はしないと決めました。
 それから、入院と自宅療養の繰り返しという療養生活に入りました。自宅療養中も規制が多くて、食事規制はもちろん、外出はマスク必須だし、人ごみや工事現場、植物の多い場所に行くことは禁じられました。だから昼間、スーパーにちょっと行くぐらいでしたね。

社会復帰への大変な道のり

 そんな療養生活を1年と少し続けた頃、先生から「徐々に社会生活に戻る練習をしてもいいですよ」っていわれて、それで仕事に復帰することにしました。名駅の西口でホームページ制作会社を経営していたんですが、最初は自宅から最寄りの駅まで5分の道のりが歩けませんでした。体力がすごく落ちていたんです。1週間ぐらいでなんとか名古屋駅に到着できるようになったんですけど、近鉄を降りてから階段を登れないんです。会社にたどり着くのだけでひと苦労でした。会社に着いてもそのまま帰ってきたりで、仕事を再開するまで1か月ぐらいかかりました。
 ようやく出社ができるようにはなったんですけど、途中で貧血症状とか過呼吸とかを頻発して歩けなくなったり、電車の中で立ってられなくなることが度々ありました。一応マスクはしてるんですが、若い子がマスクするのって珍しいことではないので、誰も病気とは思ってくれません。優先席に座っていたら高齢者の方に「お前みたいな若いものが優先席に座って恥ずかしくないのか!」って説教されたこともありました。

ヘルプマークを知る

 そういうことを何度も経験したので、制作スタッフの子に「私は病気です!ってカバンに張り紙でも貼っておこうかな(笑)」って言ったんです。そうしたら、その子が「ヘルプマークというのがあるらしいですよ」って調べて教えてくれたんです。
 ヘルプマークは、2012年、石原都知事の時代に東京都の福祉保健局が作ったんですけど、当時、知ってる人は少なかったですね。著作権は東京都が持っているんですけど、許可さえもらえば自分たちの好きなように作ることができたので、東京都の福祉保健局に許可を得て使いはじめました。ヘルプマークに「私は病気をかかえています。席をゆずることができませんが、お許し下さいと」いう文と病名を書いて、カバンにつけたんです。2017年の4月頃でした。そうしたら、電車に乗り合わせた人が「病気なんか。がんばれよ」って声をかけてくれたり、サラリーマンの人に「僕が席をゆずるからいいよ」って言ってくれたり。「私が病気ってわかってもらうだけで、まわりの人がこんなに優しくしてくれるんだ」って知りました。
 それで、そのエピソードをフェイスブックにのせたら、「私たちの地域にもヘルプマークがあればいいのに」「自分も同じようなことで悩んでいた」「ヘルプマークを私も使いたい」等、たくさんの人から反響を頂きました。

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執筆者:


  1. 越川健一郎 より:

    応援しています‼️ナゴヤキャッスルで講演していただき、誠にありがとうございました❗貴女のメッセージは確実に広がりを見せているよ。

  2. プラス編集部 より:

    越川さん、コメントありがとうございます。
    まりえさんには「こんなコメントを頂きました」ということをメールしておきますね。

  3.  こんにちわ!はじめまして!!

     三重県在住の”だいちゃん父”と申します。
    今朝のCBCラジオの番組を聞いてて小崎さんの事を知りました。

     11月21日から”ヘルプマーク”の新番組が始まるのを聞きメール入れました。

     僕の息子は重症重複障害者で”ヘルプマーク”は正直言って必要無いですが、
    僕はネット上のハンディキャップを持った方々と”ヘルプマーク”の曲を作り、
    埼玉に住む2人の友達がその曲の普及活動をしてくれています。

     朝のラジオから”ヘルプマーク”の言葉が流れて来たので、是非一度小崎さんにも
    僕等の作った”ヘルプマークのうた”を聞いて欲しいと思います。

     プラスの編集部のスタッフさん!!どうか小崎さんにこの曲のアドレスを
    転送して下さいませ、、、m(_ _)m

    ヘルプマークのうたをyoutubeで見る → https://youtu.be/MjKESjyXT4Y

    • プラス編集部 より:

      だいちゃん父さん、コメントありがとうございます。
      越川さんとだいちゃん父さんのコメントついたこと、まりえさんにメールしたところ、まりえさんから「とても温かく、以前講演を聴いてくださった方までコメントをくださっていたこと、とてもうれしく感じました」と返信を頂きました。
      ありがとうございました。

  4. まめんぞう より:

    小崎さんのヘルプマークの記事を拝見しその後お元気か気になりこの記事に辿り着きました。
    私は28才の時低リスク骨髄異形成症候群と診断された20年オーバー選手です。
    私も診断から5年迄はとても不安でしたが、その後は経過観察のみで持病とそれなりに仲良くやっています。仕事が好きなもので子どもが高校生になった5年位前からまた自分の目指す職に復帰しました。
    どうぞお身体を大切にしてご自分の道を力一杯歩んで下さい。応援しています。

    • プラス編集部 より:

      まめんぞうさん、コメントありがとうございます。
      まめんぞうさんも、まりえさんと同じ病気だったんですね。困難を背負いながらもがんばっている方々には、本当に頭が下がります。
      これからの、まめんぞうさんの人生が、より良いものになりますように(^^)

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