首長インタビュー

鈴鹿市長 / 末松則子

末松則子

マイクロキャビン創業者・大矢知直登がホストを務める「プラス対談」。今回のお相手は末松則子鈴鹿市長。東海三県で初の女性市長に就任して3年が経ち、鈴鹿の顔としてますます輝きを放つ末松則子市長。今回、大変お忙しい中、本誌のインタビューに快く対応していただいた。幼少の思い出から市長への道のりまで、なかなか聞くことのできないユニークで貴重なお話をうかがうことができた。

小さい時は、引っ込み思案のごく普通の女の子

大矢知 幼少期はどんな少女でしたか?

末松 小さいときは人見知りを結構しましたし、いつも母や先生の足をつかんで隠れているようなタイプでしたね。『幼稚園の教室の一番隅にいて、常に誰かが何かやったことを後ろから真似る』と母がよく言っていました。絵を描くのも、みんなが描き終えたくらいから、やっとこさ描き始めるというようなのんびり屋でしたし。ちょっと人見知りで引っ込み思案というようなタイプの幼稚園児でしたね。

大矢知 お生まれは?

末松 東京なんです。父が長いこと山本幸雄先生の秘書をやっていたので、小学校6年生になるまではずっと東京にいたんです。小学校6年生になって、父が三重県で県会議員に出馬するということで、家族みんなで引っ越してきたんです。

大矢知 東京のどのあたりだったんですか?

末松 生まれたのは三鷹なんですが、その後に赤坂にいまして、その後に三軒茶屋で小学校まで過ごしました。東京にいるときは父が政治家になることはないと思っておりましたので、練馬にマイホームを買ったら,買ったとたんにこっちにきたっていう感じでね。一番長くいたのは三軒茶屋です。三軒茶屋の街で、車がガンガン走ってネオンがキラキラしているのを見て育ったので、こっちに来たら静か過ぎて戸惑いました。最初に耳にしたのはカエルの鳴き声と稲がサラサラと揺れる音で、かえって全然眠れなかったです(笑)。

大矢知 電車が短いのにも驚きました?

末松 本当ですよね。短いんですよね。それと東京では、しょっちゅう分刻みで電車がきますよね。それが当たり前だと思っていたので、こっちに来て長時間電車を待たなきゃいけないことに驚きました(笑)。

大矢知 三軒茶屋での小学校の頃はどんなお子さんだったんですか?

末松 小学校の頃はいたって普通の子と変わりませんでしたし、父がまさか政治家になるとは夢にも思っていませんでしたので、それこそ、中学、高校も私立をお受験しようと思っていていたんですね。なので、電車で塾に通ったりだとか、月曜日はお習字して、火曜日はバレエにいって、水曜日はピアノを弾いてお絵かきをして…というような毎日を過ごしていました。母も、まさか三重にきて父がそんな風になるなんて思ってもないですし、娘もこんな風になるなんて思ってもいなかったんですよね。

大矢知 お父様は、その当時おいくつだったんですか?

末松 まだ30代でしたね。父は25歳で、早稲田にいっている頃から山本先生の書生に入りましたので、20代の時からずっと政治に関わっていることになりますね。三重県に来たときが、37歳ですので、決断したのは35歳か36歳頃だと思いますね。

子供の頃から政治の世界が身近な存在

大矢知 子供の頃のことで、なにか心に残っている思い出などありますか?

末松 引っ込み思案だった私ですが、小学校の4年生のときに、学級会で初めて手を挙げて発言をしたんですよ。今にしてみればたいしたことないんですが、その時自分のなかで何かが吹っ切れたような気がして。手を挙げて自分がどのようなことを言ったらみなさんに共感してもらえるのか、どういう風にお話をしたらみなさんとキチッと意見交換ができるのか。ということを体感しましたね。

大矢知 その時、急に目立ちたがり屋さんになってしまったのかな?

末松 そうかもしれないですね。成績もそんなに悪くはなかったですし、運動神経もそこそこで、そんなに目立つほうではなかったんですが、多分、目立ちたがり屋さんのお友達が何人かいて、そういうお友達がカッコイイと思ったんでしょうね。

大矢知 クラスのアイドル的存在ではなかったんですか?

末松 そんなことはありませんでした。本当にごくごく普通でしたよ。私には妹がいまして、二人一緒に幼少期を過ごしてましたね。三重に引っ越してきたのは小学校6年生の二学期からです。

大矢知 という事は、中学受験はできなかったんですか?中学、高校も私立を受験しようと思っていていたとのことでしたが、こっちは私立中学も少ないですよね。

末松 父が「私立中学にいっても私立高校に行っても一票にもならないから、公立にいってくれ」と(笑)。それで鈴鹿市立神戸小学校、神戸中学校に進み、三重県立神戸高校に入りました。中学校と高校ではソフトボールをやっていました。前か後ろかわからないぐらいに真っ黒に日焼けしていました。

大矢知 スポーツ少女だったんですね。まさか自分もお父様と同じ世界に進むとは思ってなかった?

末松 全然思っていませんでしたね。でも、父が政治の仕事をしていた事で、選挙を普通に応援していたと思います。街宣車にも乗りましたし、応援で一緒についてまわったり、運転手もしていました。

大矢知 そういったことはすでに身についていたんですね。

末松 そうですね。生まれたときから身近な人達の中に政治家という仕事をしている方が何人もいましたのでね。赤坂にいたときは、父の仕事柄,議員宿舎に出入りしていたので、まわりは大臣や代議士の方ばかりでしたし、顔を合わせたり、声をかけてもらうことが多かったことは、小さいながら記憶に残っています。ですから、政界はそんなに珍しい世界ではありませんでした。

大矢知 そんな方々を見てきたから物怖じしなかったのかもしれませんね。

末松 そういう世界で育ってましたからね。衆議院の選挙の時はテレビ番組を観るときも、母と一緒に観て一緒になって手を叩いたりしていましたね。

大矢知 幼いころからバレエ一筋だったということですが、他に趣味などありましたか?

末松 鈴鹿にきてからバレエや、ピアノはさっぱり忘れてしまいましたね。もし、今でもやっていたらどこかでピアニストになっていたかもしれないし、他に何か違う世界に生きていたかもしれませんね。

大矢知 人生どこで変わるかわかりませんからね。今のお話を聞いていると、中学・高校と普通に育ってきた感じですね。お父様が一大決心されたのが、ずっと影響してきているみたいですね。

末松 そうですね。大きな転換でしたね。中学、高校時代はとにかく、ソフトボールで一試合でも多く勝ち残りたかったです。大矢知さんはお父様の影響でいまのお仕事を?

大矢知 うちの家系は代々みんな全然違う職業についているんですよ。親父は電気屋だったんで、電気工学科があった鈴鹿高専に入って、それから電気屋を4年くらいしましたね。それから、パソコンに出会って自分でゲーム会社始めたんです。25歳で始めて、30歳くらいのときは日本でも有名な会社になったんです。僕は運がいいと思うんです。

末松 私も運は良いと思います。タイミングとかもありますしね。

手厚いバックアップと皆さんの後押しを力に

大矢知 ピンチのときなどに自分が思ってもみなかった方向から助け舟をもらったとか、誰かが助けてくれるってことはありましたか?

末松 はい、支援者の方などアドバイスをしてくれる人は沢山いらっしゃいます。

大矢知 県議選に出馬するいきさつを教えてください。

末松 キッカケは父の用事で斎藤十朗先生の事務所にお伺いした時のことです。斎藤先生から『平成15年の県議選にぜひ三重県から自民党の女性議員を出したいんだけど、末松さん、どうや?』と薦めていただいたんです。ですがその時は父の運転手としてついてきただけだったので、『私は全然そんなことは考えてません』とお答えしました。急に言われましても家族にも相談しないといけないし、全然考えてもいなかったので、その時はお断りさせていただきました。

大矢知 それで、諦めたんですか?

末松 いえ、それでも先生は『則ちゃん、地盤も看板もスタッフも全て私が面倒見るから』と言ってくださったのですが、私はその気はありませんでしたので、その後もお断りしていたんです。でも当時、私の上の子供が通う保育園で「保育とか福祉とか教育とかどんどん変わっているのに、現場のことをわかってくれる議員さんがいない」という話になって。息子の担任の先生に『やっぱり男性にはピンとこないこともあるし。末松さん、一度チャレンジしてみたら?もし出馬するなら、末松さんは保護者会もPTAもやっていてくれていたから、歴代のPTAの方々や保育士も全員、応援頑張るわよ』と背中を押されたんです。それで初めて、女性の議員が必要とされる時期なのかなと思いました。

大矢知 反対する人はいなかったのですか?

末松 何人かに相談に行ったら、反対されましたよ。その中で、お世話になっている奥様に『まだ子供が小さいんだから、まずはしっかり子育てをして、それからでも女性の社会進出は遅くない。小さい子供の子育ては後からじゃ間に合わないんだから』ということを言われました。けど、それは議員や選挙をすることに反対というのではなく、今がその時期なの?という事を母親の先輩として言ってくださったんです。もう一方で、同年代の方々は『応援するから一生懸命頑張って。働いているお母さんたちの味方となって、意見をどんどん社会に出して欲しい』ということも言われ、ひたすら悩んで考えました。

大矢知 お子さんが小さいと悩みますよね。

末松 そうですね。うちの父は大反対でしたからね。

大矢知 お父様も反対されたんですか?ホームページを見た際、お父様に頼まれたのかと思いましたが。

末松 皆さんそう言います。でも父は大反対でしたよ。多分私も、今うちの子供たちが出ると言ったら大反対しますね。

大矢知 状況がわかっているからですね。

末松 選挙も苦労も、どういうもので、どういうふうになっていくのかがわかっていますからね。それで家族会議を何度も繰り返しました。父は平成11年に市長選に落選しており、それから4年間ブランクがありますので、それこそ後援会の方とか、お友達に何回も集まっていただきました。

厳しい父に叱咤されながら…

大矢知 それからどうやって選挙に出るまでに行き着いたんですか?

末松 結局、後援会の皆様方からも『お父さんの後援会がまだ残っているし、やるんだったら今だろう』ということで、改めて皆さんにご理解とご了解をいただき、決意しました。それで、9月1日から多くの皆さんにお願いをさせていただきました。1日300人~500人にお会いしないと、父が家にあがらせてくれないんですよ。『自分でやるって言ったんだからな』『今日はどこに行ってきたんだ?』などと、とにかく厳しかったです。一度、家に帰ってからも『もう一度21時まで行ってこい』と言われてまた出される、ということもありました。

大矢知 お父様、スパルタですね。

末松 そうなんですよ。それからずっと、9月から毎日カレンダーに予定をつけて、リーフレットと名刺を持って活動していました。そのうちに、最初は1人で歩いていたんですけど、父の時にお世話になった地域の方々が『1人だと可哀想だから一緒に歩いてあげる』と応援していただきました。最終的には、靴も3足つぶしました。

大矢知 苦にならなかったんですか?

末松 やっぱり、苦にはなりますよ。だって、全然知らない方に『末松です。よろしくお願いいたします。』とご挨拶しても『ああ、そうか』とほとんど無視される方もおられますし、他の政治家の支持者の方だと、靴を投げつけられたりもしましたね。

大矢知 心折れませんでした?

末松 そりゃあ折れますよ。『なんで私、靴投げられやなあかんのだろう?』って思いました。そんなことが延々と続きましたからね。

大矢知 それだけ回ると鈴鹿の地名ほとんどわかるでしょう?

末松 もうほとんどわかりますよ。誰がどこにいて、何をなさっている方かも大体わかりますね。それくらい毎日毎日ひたすら歩いていました。その地道な活動が功を奏し、大勢の方に集会にご参加いただいたり、握手した人に覚えていただいたりしてきたんですね。その一方で、鈴鹿では女性の議員が選挙に出るのが初めての事で「まだまだ女性が認められるには時間がかかるんだな」と実感しました。

市長になることで見えてきた鈴鹿市民の本音

大矢知 他市には女性議員もお見えでしたか?

末松 三重県議会では、当時松阪選出の福山瞳さんという方が教職員組合から出られており、その方1人だけでした。その方も44年ぶりの女性議員だったんですね。私は福山先生が出てから8年ぶりの2人目だったんですよ。鈴鹿からの女性議員はもちろん初めてでしたし、ちょうど鈴鹿市選挙区の議席数が5から4に減るタイミングだったので、鈴鹿の市民に受け入れていただけるのか?という不安でいっぱいでした。皆さんには『もうちょっと目立つ選挙しなきゃだめなんじゃない?』とか散々言われましたけど、ひたすらお願いするだけでした。

大矢知 市長の性格が良かったということですね。

末松 個人演説会など開くと、場内には2~3人しか来ていない・・・とかね。それでも、めげずに話をするんですよ。でも、話を聞いてくれた人が、次の時には人を連れて来てくれるんです。

大矢知 それで、フタを開けてみたら2万票になってたんですね。

末松 先ほど申し上げたように、鈴鹿市選挙区はそれまで議席が5だったのが4に減った時だったんです。そこに5人立候補していたんですから、厳しい選挙だとは思いました。

大矢知 僕は政治家を志したことはないんですが、例えば議会で壇上に立つ姿、あれ格好いいと思うんですよ。要するに、一般市民の代表じゃないですか。対、市役所みたいな構図があって、それは悪い事じゃないと思うんです。いい方向に行政を導いていくというのは、本当に格好いいなと思います。

末松 そうですね。三重県では、平成7年から平成15年に知事をされていた北川正恭さんが、行政改革、情報公開、地方分権などに熱心に取り組まれていましたが、県議会でも、平成8年に議会改革検討委員会を設置するなど、積極的に改革を進めていました。当時の三重県議会は、議会改革真っ只中の、全国ナンバーワンの先進議会だったんですよ。それでいろんなところに視察に行ったり、いろんな議員さんたちと意見交換もさせていただいたんですが、『なんて他の議会は遅れているんだ!?』と思いました。三重県はやっぱり進んでいるなと実感しました。

大矢知 それでは最後に、市長になってよかったと思うことを教えて下さい。

末松 議員をやって良かったのは、地方がどういうふうであるべきなのかというのをよく勉強させていただいた事です。いろいろな政策の提案や執行部のチェックなど、そういう事を8年間ずっとさせていただいたことが身につきました。一方、市長に立候補した以上は、どのような街づくりをしていくかを明確にする必要があります。県の場合は、広域自治体であるという性格上、直接住民の皆様と対話をする機会が基礎自治体である市に比べると少なくなり、どうしても中二階的な形になりますが、そこを市長になり一階に降りてくることで、市民の皆様が本当に求めていることがどういうことかがよくわかります。市長や市議会議員さんや市役所の職員さんも、直接市民の皆様がこられますので逃げられないですよね。逃げられない中で「どういう市民サービスが必要かがわかるようになり、それらができるようになった」ということは、大変素晴らしいことです。今後ますます鈴鹿という街をどのように創っていくか?どういうふうに変えていくか?を構想する。これが、市長のひとつの醍醐味であるように思えます。

大矢知 なるほど、夢が広がりますね。

末松 はい、その一方で、この間も災害の話がありましたけど、どうやって市民の皆様の生命、財産を守っていくか?をギリギリの状況の中で決断をしなくてはならない状況も発生します。市民の生命を1人で背負っているわけではないのですが、それくらいの重みがある職責だと思っています。決断を押し迫られたときは間違った決断をしないように、いろんな方のご意見やお話を聞いて決断をしていかなくてはならない。でも災害の際には本当に時間がないので、日頃から情報収集をしたり分析をしたりして、常にアンテナを磨いておかないといけないと思っています。

大矢知 いいお話がうかがえました。今日は本当にありがとうございました。

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