三重の歴史

信長と第二次伊勢侵攻その2

1569年(永禄12年)、信長は前年将軍宣下を受けた義昭のために二条城を造営します。
その理由は、前年駆逐した三好三人衆が阿波から海を越えて再び京に侵入し、義昭が御所としていた六条の本圀寺を襲うという事件の対策のためです。
ルイス・フロイスの報告によれば、この御所建設は少ない時でも1万5千人以上が工事に従事し、通常なら2、3年はかかるだろう工事を70日ほどで完成させるという突貫工事だったようです。
 こうして、信長は強力な軍事力を背景に将軍義昭という権威に協力する形で京都・畿内の運営を行う相互補完体制を築きます。
 そして、外交面でも将軍義昭の外交方針に協力する形で、上杉と武田の講和をうながしたり、翻って西国では毛利・大友の争いにやはり将軍義昭に同調したりして影響力を行使していきます。
 こうした目の回るような忙しさの中、信長はいよいよ伊勢国最大の勢力である北畠氏攻略を始めます。

 この北畠氏は、村上源氏の流れをくむ名門で、南北朝時代に南朝方として活躍していた北畠親房が1336年延元元年(建武3年)に伊勢に下向してその基礎を築いて以降、200年以上にわたって南伊勢に一大勢力を築いていました。
親房が伊勢を選んだ理由はいくつかあるようですが、そのうちの一つに、伊勢大湊が東国との海上交通の要衝であったこととその背景にある海上輸送能力、経済力に目を付けた、ということがあったのは間違いないでしょう。
 実際に、親房は関東地方に南朝勢力を拡大すべく義良親王、宗良親王を奉じて大湊から関東にわたる計画を実行します。
残念ながら、この計画は船が暴風にあったため失敗に終わり、その後、観応の擾乱で一時的に京を奪回するも最終的には北畠氏も幕府に服属することになります。
この室町幕府体制下の伊勢国は、安濃郡以北を伊勢国守護が、一志郡より南を北畠がといったように一応の住み分けがなされていました。
とはいうものの、これまで何度か触れてきたように中勢に長野工藤氏、鈴鹿郡に関氏、さらに北には北勢四十八家と呼ばれる国人たちが存在するといった具合で、伊勢国守護といってもそう大きな顔はできなかったようです。その一方で、北畠氏は南伊勢のみならず大和宇陀郡付近まで影響を及ぼすようになって着実に勢力を拡大していきます。

こうした血筋も良くしたたかさも合わせ持つ北畠氏にとっても、信長が北勢を押さえたということに対する衝撃は相当なものがあったでしょう。
信長が京に二条城を建設している頃、北畠領国内で乱がおきます。信長の北伊勢制圧に動揺したのか、あるいは滝川一益の調略の結果かはわかりませんがいずれにしてもこの機に乗じて織田勢は南伊勢に侵攻を開始します。
そして、8月にはいよいよ信長が直接伊勢に出張ってきます。
この頃にはすでに北畠氏側の木造氏は信長に服属していたようで、8月20日に桑名、22日白子観音寺、翌23日に木造に着陣したと信長公記に記されています。
信長に率いられた織田勢は信長と同盟関係にあった徳川勢に美濃、江州の軍勢、それに新たに服属した北伊勢の国人たち計8万人ほど(一説には10万とも)の一大勢力だったようです。
この時期にこれだけの大軍を動かせる信長の経済力と行政能力の高さにはあきれますが、違う視点で見ればできるだけ手早く南伊勢を制圧したかったのでしょう。
何しろ、先に述べた三好三人衆の脅威が残るなどまだまだ畿内が安定しきったとはいえず、信長が長期に京都付近から居なくなるのはリスクが高かったからです(実際に、信長は10日ほどで南伊勢を制圧するつもりだったようです)。
信長の戦いの特徴は、必ず勝てると踏むまでことを起こさず、起こすからには周到な準備をして大軍で臨むというものでした。だからこそ、今回の北畠氏攻略には当時の投入可能な戦力の全てと言っていいだけの戦力を投入しています。
そのため、今回の侵攻に参加した織田勢の武将の顔ぶれも伊勢攻略担当の滝川一益を始めとして柴田勝家、前田利家、丹羽長秀や木下藤吉郎などといった当時の織田家オールスターキャストといってもよいものでした。
現実の状況も信長の想定通り事は進み、当時の記録には9月前半には北畠領の大半を制圧したと記されています。
しかし、本拠地である多気を放棄して大河内城に籠って徹底抗戦の姿勢を見せる北畠具教・具房親子に織田勢は思いもよらぬ苦戦を強いられます。北畠親子からすれば、斯波氏ならともかくその家臣だった織田ごときに、という想いがあったのかも知れません。
そして、8月の終わり頃には織田勢は大河内城を包囲しますが、谷川に挟まれた複雑な地形を巧みに利用した構造の城のため、簡単には手を出せません。夜討ちや兵糧攻めなど試みますがこれといった成果は上がらなかったばかりか、当時の資料から推測すると織田勢は相当苦戦していたようです。
こうして、大河内城攻略に手間取っているうちに信長の恐れた状況が起こってきます。
前年、観音寺城を放棄して甲賀に逃れた六角義賢らが不穏な動きを見せるなど京付近がきな臭くなってきたうえ、甲賀・伊賀の国人も蜂起するなど、うかうかしていると美濃の本拠に帰ることすらおぼつかなくなる恐れが出てきました。
そこで、信長は膠着状態を打開するため、北畠氏と和睦することを提案します。
北畠氏にしても、援軍の見込みのない籠城戦の先に勝利などないことは百も承知でしたから、信長の提案を受け入れ、10月3日大河内城はようやく開城します。
この和睦の条件が、信長の方が相当苦戦したにもかかわらず信長有利なものでした。
その一つが信長の次男である茶筅丸(後の信雄)を北畠家の養嗣子とすること、その他に大河内城の明け渡しなどがあったようです。
信長がこれだけ有利な条件を引き出すことができたのは、当時蜜月関係にあった将軍義昭に信長有利になるように和睦の仲介するよう働きかけたからかも知れません。

こうして、信長は伊勢国を支配することになりますが、支配といってもその実態は信長に服属した国人らには既得権益を一定の範囲で保証するなど妥協に満ちたものでした。しかし、これは当時の信長を取り巻く環境、つまり武田、本願寺(一向一揆)、浅井・朝倉連合という四面楚歌の状況を考えると仕方のないことでしょう。
実際に、早期に彼ら伊勢国の領主、国人たちをその後の織田軍団の一員として組み込んでいく必要もあったことからやむを得ない所だったと言えますが、こうした状態は、本能寺の変で信長が斃れるまで続くことになります。

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